トップへ戻る

六曜迷信と差別解消への行動


■「部落解放」誌に掲載された、六曜と差別のかかわりについての
熊本学園大学 羽江忠彦教授の著述等を参考にしてまとめたものです。■


 よく知られた「ウソをつくとエンマ様に舌をぬかれる」という言い習わしによって、「ウソをつくことはいけないことだ」という規範だけを獲得すればよい問題が、「エンマ様」を利用したばかりに、その存在を脳裏に刻み込む結果(親や周りから刷り込まれた)になっている人は少なくないと思います。(注:閻魔大王のことは「十王経」というものの中に登場します。)

 差別すること、されることが日常化している中では、その行動のしかた、様式を学習するだけではありません。人間の歴史を、「差別からの解放の歴史」ではなく、「差別の歴史」だとする歴史観も獲得することになっています。

 私たちの生活の中では、このような意図せざる学習の結果や教育の結果は多いものです。部落差別をなくす行動力を獲得するためには、私たちの日々の生活の中で偏見や差別意識を正す営みが当たり前になっていることが必要ではないでしょうか。



なにげない慣習を見つめ直す

 女性差別、障害者差別、人種差別など、多くの被差別の立場にある人々は、被差別の立場にあることを示す「しるし」が、他者によって見えます。しかし、被差別部落の人々は、「自らあかす」か、「宣言する」か、それとも「あばかれる」かということによってしか、被差別の立場にあることが見えない存在です。それゆえに、その祖先は「穢多身分」とされ、それとわかる「しるし」を強制されたのです。(着物の制限、帯の制限、毛皮片の着用など) 「しるし」を拒否し、同時に解放を実規するために、どれほど勇気をもってその不合理な扱いに、果敢に闘いを続けたかは、既によく知られているところです。

 見てわかる「しるし」を強制された状態から解放され、すでに120年以上も経ているにかかわらず、今もまだ一部には、被差別部落に居住していることで、差別というレッテルを貼り、結婚、交際を回避する、あるいは拒否するなどの状況が見られます。「被差別部落民との結婚には反対だ」とあらかじめ親が宣言し、子どもたちの自由な交際を制約しているばかりか、尊い命までも奪い去っている状況もあります。そしてそれは、より巧妙な身元調査に差別者を走らせている一因になっていますし、就職に対しての「地名総鑑」などの就職差別事象が再発していることでも否定できません。

 そこには、「昔から、みんなが、今も」そうしているから身元調査をするのだと、「ならわし、しきたり」に、無自覚に従っている人々の存在が認められます。「被差別部落の人たちは穢れているから、差別されるようになった」とも言われ続けています。このように、誰かが言ったとき、その間違いを説明できると言えないばかりか、憶してしまう私たちです。

 この憶してしまう私たちは、お葬式の後、「清めの塩」をまく慣習を生み広げ、浄穢という差別的観念を温存しているのです。いつも自分が「」の立場にいるためには、「穢れ」を祓う必要が生じて来るのです。「ならわし、しきたり」に潜在する差別・偏見、そして合理的な根拠のないことを私たちが見抜き、これを「なくす」力を身につけることがなくては、部落差別を、そして、部落差別を支えている他の諸々の差別をなくす行動も、期待するほどには前進しないのではないでしょうか。

 そのためにこそ、「差別をする習わし、しきたり」、「差別的観念やイデオロギー」、「偏見を根付かせる習わし、しきたり」をなくすこと、それを、人間関係が絡み合い、しっかりと結び合っている家庭や、職場、地域の中で自分の事として一人一人が地道に確実に進めなければならないいうことです。



「六曜」占い・迷信

 手帳やカレンダーには、未だに堂々と「六曜迷信」が記載されているものがほとんどです。結婚式やおめでたいことだというと「大安」、お葬式だというと「友引はだめだ」、事故を起こすと「仏滅」だと、至極当然のことのように、判断の基準となっているものは、根拠のない「六曜」です。老若男女を問わず広がっていて、「信じない」とは言いながらも、それに従っているのが「六曜」占いという迷信です。事実、結婚式は圧倒的に「大安」、それも「大安」+「日曜日」が重宝がられ、斎場の休日は「友引」とされている例は枚挙にいとまがありません。

 旧暦の慣習を新暦に改めるという改暦が正式に決定されたのは、(1872年)明治5年11月9日、「太政官布告(第337号)」という法律の布告によりました。法律の公布から、実際の改暦までの期間が1ヶ月もないという慌ただしさです。年末ですので、既に翌年の暦は印刷されていましたが、この法律によって既に印刷されていた暦は、紙屑になってしまいました。

 しかし、これには政府の裏の事情もあったようで、明治新政府が改暦を行った理由には、深刻な財政問題があったともいわれています。従来の暦では翌明治6年は閏年で、閏月が入るため1年が13ヶ月となっていたのです。役人の給与は年棒制から月給制に改められた後なので、明治6年には13回給与を支払わなければなりません。これは、財政難であった明治新政府にとって悩みの種でした。ちょうどこの時、太陽暦に切り替えることによって、明治5年の12月は新旧の差から、2日しかありませんので、この月の月給は支払わないこととすれば、明治5年分の給与も1月分減らせる、正に一石二鳥の改暦だったわけです。

 しかし、だからといって、旧暦に「六曜」が付随して生き残ってきたと言うことは全く別の問題なのです。いかに日本人が迷信を信じ、数字の語呂合わせに一喜一憂するという精神文化の低俗な国民であるかということにほかなりません。

 「六曜占い」を暦から追放する企ては、1979年、福岡からはじまり、広島県能美町で運動として取り組まれてから、少しずつですが、確実に広がりを見てきました。
 そのような中で、JA丹波はカレンダーから差別を温存助長する片棒を担いでいる「六曜」を削除して来ましたし、今年四月一日(2002年4月1日は旧暦の2月19日に当たり、「友引」) 友引にオープンする篠山市斎場、横浜市斎場は、いずれも四月一日が「友引である事にこだわりを持たない変革であると言うことができるでしょう。

 「六曜」とは、次のようにもっともらしく解説されています。

先勝 万事早きが吉 午後二時より 六時までは 凶なり
友引 この日正午のみ凶 朝夕大いに吉なり 儀式を忌むべし
先負 この日静かなる事に吉 午前中は凶 午後より吉なり
仏滅 この日凶日なれば何事も忌む この日病めば長引く
大安 吉日なり 婚礼 旅行 移転 開店 その他万事よし
赤口 凶日なれば 何事に用いて悪し 但し正午のみ吉なり

 この解説のどこに合理的な根拠があるのでしょうか。根拠のない、事実に基づかない意味づけは、人心を惑わし、正しく物事を判断する力を削いでいく何ものでもないのです。「友引」をはじめとして、「六曜占い・迷信」にこだわることを、信仰とかかわりのない、信仰の妨げとして否定する寺院や僧侶の人たちが増加している現状ですが、そのような例はまだ少ない状況です。そして、「六曜」を否定すればするほど「変人扱い」にされる場合が見受けられます。

 「六曜」は旧暦の1月1日を先勝とし、2月1日は友引3月1日は先負と順次配していく一方、1月1日に先勝2日友引3日先負4日仏滅5日大安6日赤口と一巡すると、7日は先勝と繰り返し、月の末日でその循環は打ち切られ、2月は1日友引2日先負と循環するやりかたが主流です。(計算式は後述)

 現在流布している「六曜」は、・中国から室町時代に伝来したものとは似て非なるもので、江戸中期・享保の頃に作られたものだとされています。「結婚式の日」としてこだわられている「大安」は、中国では「大安」、享保の頃は「奉安」と言われていました。「友引」は「先負」と「先勝」の間で「ひきわけ(共引)ということだったようですが、「留連」あるいは「流連」とも表現されていました。また、「仏滅」は「物滅」とも言われた時期もあったようですし、「空亡」、「虚亡」とも表現され、何の意味かもわからず、字の感じから、或いは明治期に意図的に「仏滅」というものに占い書の発行者が改めたとも言われる、いいかげんなものの最たる代表格です。時間という観念・概念、暦を生み出した人間の歩みとは裏腹に、時間、日にいいかげんなレッテルを張り付けたものにすぎません。

 この安直さ、いいかげんさと同時に六曜の迷信は、
 @吉凶を単純に、直接に示していること
 Aいかにも予知に基づくような行動の選択が容易なこと
 B個人的に信じていること、こだわっていることを秘密にすることができること
 C昔から、古くからある、ということを強調でき、協調させやすいこと
 D自分だけでなくみんながということを主張できること
などの特徴を備えているがゆえに、「六曜」迷信は流布し続けてきたといえます。

 それゆえ、(1872年)明治5年の「改暦の詔書」、「大政官布告」などによる禁止にもかかわらず、また、科学の時代といわれる現在でも、人々の不安をエネルギーにして「六曜占い・迷信」は生き続けています。そればかりか、あるべき信仰の基礎、科学的・合理的思考の基礎を掘り崩し続け、差別を温存・助長している根性に巣くう亡霊として私達を支配しているのです。

 部落差別をはじめ、「生まれによる差別」は、運命的に与えられた個人の変更不可能な条件をもってする差別であるがゆえに、野蛮で、乱暴で、狭隘で、停滞した精神的、知的世界の所産以外の何ものでもないでしょう。部落差別を存在させている私たちは、また、「六曜」をはじめとする「血液型」、「方角」、「家相」、「墓相」などの占い・迷信を存在させている私たちです。部落差別をはじめすべての「生まれによる差別」をなくし、「人権の時代」を切り開く具体的な行動を、日々の生活の中で実行しようとするとき、「六曜」をはじめとする占い・迷信をなくす取り組みは避けられないと考えます。これは私たちが、「差別をしない」から「差別をなくす」という行動への転換ということにつながっていくのです。「六曜を信じない」、「占いによって行動判断をしない」ということは、一人からでも容易に実行できることであり、同時に、迷信を支持する人に対して「根拠のないこと」と説得するにはそれほど難しいことではない「差別根絶」への誰にでもできる実践なのです。


 昭和24年発行の「迷信の実態・日本の俗信」(文部省迷信調査協議会)によると、「孔明六曜星などというと、さも諸葛孔明の発明であるかの如く思われるが・・・・元来これは、中国の「小六壬」という迷信を日本で作り替えた上、箔をつけるため、名将孔明の名を冠するという小細工をしたものと思われる。・・・・・・しかし、乾隆36年にできた「通徳類情」という有名な迷信書にも「毫も深義もなし、むろんその義は取るに足らず、いずくんぞ拠となすべけんや、人を欺くものなり」と罵倒して、暦書から抹殺されたものなのです。寛政・文化・嘉永と流行した「暦略注」等にも、孔明六曜星が全く省略されており、当時はさほど重要視されていなかったのです。

 「暦略注」の最後の部分に「闇の曙」(新井白我)の一文を抜粋しているものに、「曰く、世間に愚俗を惑わす道具のあらまし次の如し。家相・人相・墨色・字画の占い・金神及び仏神のたたり・剣相・日取り・星繰り・憑きもの・呪禁・不成就日・辻占・死霊・生霊。・・・・・家屋敷を買う人には吉日なれど売る人の身には凶日なり。物拾い、或は金もうけせし人には吉日。物落し、金銭にても損せし人には悪日なり。この類推して知るべし。」とあるのです。

 日本における「六曜」は、中国の「小六壬」からはずいぶん変化したものです。また、「神宮館家庭暦」のごときも、皇太神宮とは無関係なものであり、神宮館と称する一営利業者の発行する印刷物に過ぎず、これを後生大事に盲信している人々のあり方こそ、日本社会における精神文化の停滞を意味するものと言わざるを得ません。

 「六曜」の呼称の変遷は、  

繰 り 方

陽年 小吉 空亡 大安 留連 速喜 赤口
陰年 留連 速喜 赤口 小吉 空亡 大安
室町時代 大安 留連 速喜 赤口 小吉 空亡
徳川時代 泰安 流連 則吉 赤口 周吉 虚亡
現  行 先勝 友引 先負 仏滅 大安 赤口











と変化してきました。

 妖怪学の井上円了は「吉日凶日を談ずるがごときは、・・・・・・特にかくの如き説を信ずる者あるがため、之を専門とする徒は人民の愚に乗じ、種々の怪談・妄説を附会して、以て自ら私利を営まんとするの弊あり。この故にいやしくも今日の教育を受けたる者は、かくの如き妄説を排し且つその惑いを解かんことに従事せざるべからず」と強調しています。

 (1872年)明治5年11月9日、太政官布告337号において「今般改暦之儀別紙詔書写の通り仰せ出され候條、此の旨相達し候事」と太陰暦を太陽暦に改めるにあたって、次のような「改暦詔書写」を掲げています。

 「朕惟うに我国通行の暦たる、太陰の朔望を以て月を立て太陽の躔度に合す。故に2,3年間必ず閏月をおかざるを得ず、置閏の前後、時に季節の早晩あり、終に推歩の差を生ずるに至る。殊に中下段に掲る所の如きはおおむね亡誕無稽に属し、人智の開発を妨ぐるもの少しとせず・・・・・」と論告し、同年11月24日、太政官布告を続いて発し「今般太陽暦御頒布に付、来明治6年限り略暦は歳徳・金神・日の善悪を始め、中下段掲載候不稽の説等増補致候儀一切相成らず候」と厳しく達しています。

 「六曜」を始めとする「三隣亡」や「血液型」などの迷信が、実生活の中で慣習として生き残っていることと、「慣習としての差別」の存在は共通するものがあります。そしてこの「慣習」というものは、知的な形として形成されていくものではなく、「刷り込み」という形で形成されていくものなのです。生活の中での繰り返しによって刷り込まれていく感覚的なもので、「理屈ではわかるが、どうも気持ちの上で・・・・」と言われることとなってしまうのです。

 「六曜」や「三隣亡」、「血液型」など、根拠に乏しい迷信が、現在の科学技術の進歩した日本社会に現存することは、反対の立場から見ると、それが存在することによって利益」を得る者が存在し、その者が巧みにこのことを利用しているのではないかと言えるです。迷信を信じ、或いは捨てきれずにいる精神文化は、まさにあらゆる差別を温存助長していることに密接につながっているのです。



 六曜の決め方

 六曜は一日ずつ、神秘的な或いは根拠の説明できる方法で決められているのではなく、単に旧暦の月日の数字で割り振られているに過ぎないのです。また、いわゆる自然の摂理とも全く異なることなのです。

 たとえば、旧暦の3月4日は  (3+4)÷6=1 と 余り=1・・・・赤口 となります。
       旧暦の10月の19日は (10+19)÷6=4 と 余り=5・・・・仏滅 となります。 
        つまり、この余りの数字で割りあてられているのです。

 六日に一度必ず巡ってくるとは限りません。三日目に「大安」が配される場合がありますが、それは、その三日間の内に、計算式の分子となっている月の数字が変わっている、つまり、旧暦では月が変わっているのですから、当然、上の式で完全に説明がつくことなのです。

   
余り=0 大安
余り=1 赤口
余り=2 先勝
余り=3 友引
余り=4 先負
余り=5 仏滅
つまり 旧暦の1月1日は先勝
旧暦の2月1日は友引
旧暦の3月1日は先負
旧暦の4月1日は仏滅
旧暦の5月1日は大安
旧暦の6月1日は赤口
旧暦の7月1日は先勝
旧暦の8月1日は友引
旧暦の9月1日は先負
旧暦の10月1日は仏滅
旧暦の11月1日は大安
旧暦の12月1日は赤口
目くじら立てるほど縁儀かつぎしますか?
日の善し悪しは、日が元来備えていることではなく、
それぞれの個人がどの様にその日を送るかによっ
て結果がでるもので、個人個人によって異なるもの
なのです。

明治初期には次々と人権に関わる太政官布告が出されました。
しかし、その布告は未だに受け入れられていないものが見受けられるのです。

賎称廃止令(解放令)
斃牛馬勝手処置令
改暦の布告。(太政官布告)
女人禁制の廃止。(太政官布告)
僧侶の肉食・妻帯・平服着用許可。(太政官布告)
人身売買・娼妓の年季奉公の禁止。(太政官布告)
梓巫・市子・憑祈祷・狐下げの禁止。(教部省令)
公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム
華士族分家ノ者ハ平民籍ニ編入ス
神官が葬儀に関係することを禁止(明治15年1月)
火葬禁止は1年で廃止(明治8年5月)