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差別への思いにふれて


                            M 子
 6年ほど前、主人の転勤で現在の住まいに転居してきました。転居してまもなく、ポストに“会館だより”が入ってました。はじめは「何かな?」」と思いましたが、別に気にもとめていませんでした。が、何度か“会館だより”が配布されて、読んでみると、いつも部落差別に関することが書いてありました。「もしかしたらここは………」と不安でいっぱいになりました。

 そのうちに、近所の方からここは同和地区であることを聞きました。それからの私は、住所を聞かれてもはっきりと言えなくなりました。が、心のなかには、自分は新興住宅地に住んでいるのだが、対象地域の人間ではないのだ、という間違った思いがいつもあったように思います。

 そういう状態で何年か過ぎ、我が子が幼稚園に入る年齢になりました。家のすぐ近くに同和保育所があり、園児達が楽しそうに散歩したり、毎日「ファイト!」とかけ声をかけながらマラソンをしている姿を見ていました。でも、同和保育所というこだわりがあり、わが子を入所させるということは全く考えていませんでした。私立の保育園へ問い合わせたり、子どもを連れて見学に行ったりもしました。しかし、下の子どもがまだ小さかったので、どこも送迎するのに無理があり結局、近所にある同和保育所に預けるしかしようがないことになりました。子どもを保育所に入れても、部落差別は自分には関係ないことだし、子どもだけ見てもらえればいいと思っていました。入所の案内に、「差別をしない、させない、許さない子どもを育てる」と書いてあるのを読んで、ある怖さみたいなものさえ感じてしまっていました。

 子どもが保育所生活を送るようになると同時に、私も保育所が取り組んでいる同和問題の研修会に、無理でも出席しなければならなくなりました。同和問題について話し合いをしたり、生命の尊さをテーマにつくられた同和問題啓発紙が配布されたりしました。そのとき私は、「いつも同和同和ってかなわんわ」と思っていました。その奥底には、自分の偏見、差別心をのぞかれるのがこわいということがあったと思います。

 同和問題の研修会では、地域のお母さんたちが、自分が今まで受けた差別体験を話されます。そして、自分の子どもを見て、この子も自分のような差別を受け、つらい思いをする時が来ると思うと、「もう大きくならんといて」と思うときがあると、声を詰まらせながら話されました。しかし、私には、対象地域の人間でないから……という気持ちが根強くあり、話を聞いて胸が詰まる思いをしていても、なかなか自分の問題として考えられませんでした。

 ところが、何度も研修会に出て、対象地域に住むお母さんにふれて、自分の考えを自分自身に問い直すようになりました。私は部落差別をしている一人なのだ。こんなつらい思いをさせているのは私なんだ、とやっと気がつきました。多数の中にいた方が安心だという意識こそが、差別されている人を見ても、見て見ぬふりをさせている理由の一つではないでしょうか。

 地域のお母さんが、言いたくない差別体験のつらい思いをなぜ話してくれるのだろうか。それは、「子どもには絶対こんなつらい思いをさせたくない。差別するような子に対して見て見ぬふりをする子どもに育てたらあかん。差別に負けない子どもに育てるのだ。だから、今、子どもにどうかかわるかがとっても大事なことだ」という強い思いが、しんどくても周りの人に言っていくという啓発活動への原動力になっているのだとわかりました。

 地域のお母さんの子どもにかける願いを知り、自分の子育てを猛省しました。誰しも自分の子どもは可愛いから精一杯の愛情をかけて育てていると思います。でも、私の場合は、子どもに愛情を注いでも、それは自分の所有物として、自分の思うような子どもに育てたい、という私の勝手な希望で、子どもの気持ちを、人権を全く無視していたのです。

 自分の住む地域でありながら、なかなか行くことができなかった教育集会所。そこで行われる文化祭を3年前初めて見に行きました。「新興住宅に住んでおられる人はほとんど行っていないのに、私が行ってどう思わはるやろ、近所の人は変に思わへんかしら……」そんなことを思いながら出かけました。

 文化祭で地域のお母さんたちが、部落解放に託す思いをつづった歌を歌われました。その歌を聴いて、私は頭を上げられませんでした。涙が出てきて、「ごめんなさい、ごめんなさい」そんな思いがこみ上げてきました。こんなつらい歌を歌わせているのは私たち周りの人間なのです。「私は地域の人間じゃないから関係ない」ではいけないのです。人として生まれてきて、みんな同じに幸福に生きる権利があるはずなのに……。何百年と続いた部落差別の歴史のなかに、自分の人生が組み込まれていく人がいるのです。

 地域のお母さんが、「同和教育は地域のためにやっているのと違う。自分自身の問題なのに、何で私たちがいつも言っていかなあかんの」と、涙を流しながら話されました。今になって、やっとその言葉がわかるようになりました。同和教育は誰のためでもない。自分自身の問題なのです。自分を相手の立場に置き換えたら、絶対差別なんてできなくなるのではないでしょうか。

 私は、子どもが同和保育所に入ったことで、親として、人として一番大事なものに気づくことができたことを喜んでいます。そして、今度は私がまわりの人たちに勇気を出して、差別される人たちの苦しみや願いを言っていくことが“差別”をなくしていくための第一歩なのだと思います。