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連続講座
第2回 2002.3.8     講師:(財)西成労働福祉センター 住田一郎さん
出会い・伝え・つながるために

たたずみ・固まり、排除市合う関係が、日常の差別意識を支えている。
自分を語る事に躊躇するのは、判り合えない現実に出会ってきたから?
少しずつ解きほぐし、つながりあえる糸口を見つけだすために・・・。
 被差別の側が持っている意識の有り様を、その生活実態から明らかにする中で「差別されるかもわからないというあらかじめの不安」についての共通理解を得る。

 今日の資料は私の2枚のレジメと川西さんが『こぺる』に掲載された私のつれあいの「私はそこで生きてきた」の二種類です。

 実は、つれ合いの文章は2回目で、2000年9月のNo.90に第1回「今始まった私自身の再生」が掲載されています。

 再来月ですかね、5月ごろに3回目「共同体における被差別の意味」の掲載が予定されています。今編集中です。本人はもう1回書いて、4回でだいたい自分なりの総括というか、総括していくための視点を整理したいと考えているようです。

 彼女の文章から話を始めたほうが今日の視点は分かりやすいかなと思います。

 彼女は2000年9月に初めて書いたんですが、彼女はもともとルポライターで、ものを書く仕事をしていました。

 書くことは別に苦手でもなかったんですが、ただ、被差別部落で自分が感じたこと、生活してきた事実をそのまま活字にすることに関しては大きな抵抗があったようです。

 たまたま1996年にアメリカに行きまして、それから4年してやっと吹っ切れたというか、自分にしか書けないものがある、と思ったみたいです。

 というのは、被差別部落出身でない自分には、部落問題は書けないのではないかとずーっと考えつづけてきたみたいです。

 アメリカで黒人大学の大学院で、黒人といっしょにいろんな勉強をするなかで、いままで靄がかかっていたところが薄らいできた、これなら書けるんではないか、という考えに思い至るまでに4年かかったようです。

 それ以後、自分にしか書けない部分があるだろうと、まあ現に私と結婚してから20年余り、私がいうのもおかしいぐらいに、被差別部落での活動に率先して参加してきました。

 乳飲み子を抱えて、まあ私と一緒に3人4人の子どもを連れて、様々な集会に参加してました。

 自分が学べる場があるならどこにでも率先して行くという感じでした。地域での活動でも頑張っていくと、20年間、馬車馬の如く、子育ても含めてやってきたという状況があります。

 20年たった’95年ぐらいから、やっぱりしんどい、まあ今回の文章のなかにそのことを書いているかどうか分からないですが、自分自身は部落民になれるのか、というそれこそ私といっしょになったわけだから、当然部落民になったという言い方はあります。

 世間的に見れば、部落出身でないけれども、部落の中でずっと生活してるわけですから、当然部落民だと思われることはしょっちゅうなんですね。

 しかし、部落の中ではあくまで異邦人というか、部落民でない「すみだいくこ」をずっと引きずってきたという感じなんですね。

 で、これはやっぱり私にはちょっと分からんことなんですね。

 夫婦であってもわからんことがいっぱいありますよね。

 しょっちゅう議論してました。夜中1時2時ぐらいまで集会が終わってからですね、話をする。

 今日はこんなことがあったな、いうことで話してました。

 実はそのことが私にとっても、部落問題、部落の状況を客観的に見れる一番いい場面だったと思います。

 身近にそういうかたちで、我々部落民とは意見が違う、全然違ったということじゃないですが、それでも違う視点から部落問題を考えていくという議論ができた。

 このことが私自身部落問題を考えるうえで非常に大きな示唆というか、援助を受けたと感じています。

 それでも彼女のほうにすれば、やっぱり分からないと。住田一郎に対する地域の人たちの目と、すみだいくこに対する地域の人たちの目は微妙に違う。ということをずっと感じてきた、と彼女は言っています。

 これはある意味ではどうしようもないことなんですけれどもね。そういう意味で彼女自身は、3回目、多分4回目も書くんだと思います。

 自分のなかでのこだわりは、部落で生活しながら、部落差別の中で生きるとはどういうことなのか。もっと言えば、部落差別の傷というのは、どういうかたちで共同体の中に表れるのか、ということを、ずっとこだわってきたと言ってます。

 当然、どこにでもコミュニティーはあるわけですから、部落特有というか部落だけにしかないということもないわけです。

 けれども、やはり部落の中でしか分からなかった、と結婚してから10年15年たってよく彼女は言いだしましたね。

 神奈川県出身で、関東地方は部落問題は非常に希薄な土地ですから、仲間の中でも具体的に部落問題が話題になることは全然なかった。

 そういう意味では反対に先入観もないし、偏見も彼女はなかった。部落問題は大阪に来てから知ったわけですけれども、どうしても違和感があるんですね。

 部落は怖いとか、子どものときこんなこと言われたとか自分の実感として何もないわけですし、鵜呑みにすることを非常に嫌う人なんですが。

 それでもわたしといっしょになって、部落の中で生活しなければ分からないことがいっぱいあった、そういうことをよく言うようになりました。

 多分、自分が外でずっと生活していたら、部落の問題に関して、ここまで入りきらなかっただろうし、分からなかった、ということをしょっちゅう彼女は言うようになってきました。

 2回目には、やはり自分が地域の中で活動していったときのことを多く書いています。部落の人たちはどうして、こうも乗り越えれないのか、乗り越えにくい課題の聞き取りを、彼女はよくやっています。

 保育を守る会という組織があります。100世帯ぐらいの組織なんですが、そこの会長にも推されて、ずっと活動してきたわけなんですね。

 その学習会の中で、部落外の人たちもたくさん地域のなかに来てるけれども、その人たちの結婚はどうだったのかということを話題にしています。

 多くの部落外から嫁いで来た人たちは、案外熱心に運動に関わっているんですね。

 特に、女性が部落外の人は、今の対策事業とも関連するわけですけれども、実際、運動に非常に積極的です。

 ところが、部落出身の男性のほうは足を引っ張る、そんなことやめとけやめとけ、やらんでもええぞというふうな感じですね。

 部落の男のほうが一生懸命足引っ張りするなんてことはいっぱいありますね。そういう状況の中でいろんな話を聞くと、部落のことをまったく話すことなく一緒になった人とか、子どもが生まれてから初めて知ったとか、というようなことがあったりですね。こんな大切なこと、なんで結婚のとき話してくれなかったのか、というような思いであるとかですね>

 また名乗るということを必要だと思ってる男性が、そっとデートの帰りに、「この本読んでくれる」といって藤村の『破戒』を渡すとかですね、知ってもらうという努力はしてるみたいですね。

 それでも、ほんとに自由なかたちでその恋人とも部落問題について話す、という事に関しては、やはり異常に大きな壁があるということをよく感じます。

 部落差別をする方が悪いやん、と言いながらですね、そんなことを運動のなかで指摘したりする人はいっぱいいると思います。

 でも、若者が自分の恋人とほんとにフランクなかたちで部落問題をしゃべるか、といえば、やっぱり避けてる、ということが多いみたいです。だから、そこに一体何があるのかという問題が、部落の人たちのなかにある部落問題認識なんですね。

 これは前もちょっと言ったかも分かりませんけれども、私たちの中には、私たちの中というよりも運動を進めていく人もそうだし、外の人の中にも若干あるのかもわかりませんけれども、部落に生まれれば、部落問題を知って当然という、部落問題に関しては、少なくとも運動してる人は、当然理論的にもしっかりしていて当たり前のように思われてるきらいがあるみたいですけれども、そうではないですね、やっぱり。

 そんな簡単に生まれたままで部落問題が分かるはずもないわけですから。当然意識的に、部落問題と取り組まなければ、しっかりした理論的なものをつくるということは難しい状況ですね。

 でもやはり部落問題で萎縮する必要はないということははっきりしているし、別に卑下することもない。

 でも実際に恋人と話し合うことになれば、やっぱり躊躇している自分がいる、ということが、特にここ20年ぐらい前から、運動がそれなりに上向きになり、特措法も制定されるなかで、成人した人の中にでもまだまだそのような問題があると私は感じています。

 そういうことから、今日のレジメは、ほぼ部落の人たちの課題、なんでここまで書くかと言われるかも分かりませんが書いてます。これは最初から弁解したって全然意味ないんですけれども、実は部落の弱さを私自身が指摘するということは、それこそあげつらうとか、それ見てみいというかたちで言われるんじゃないか、そのように危惧する人たちが私の周りにもいっぱいいますし、当然私もそのことがどうでもいいことだと考えているわけではないです。

 ただ反対から言えば、部落の私たち自身がここが問題なんだよと、自らの問題に、自ら向き合おうとしている、その事実として捉えてほしいと思ってるんですね。

 だから私がここで話したことをそのまま、被差別部落の人たちがすべて容認して、わかった、というかたちで言ってるかというとそういうことじゃないんです。

 ただ、私自身は多分部落差別を受けるということ、受けつづけるということの持つ意味を紐解いていく必要があるだろうと思ってます。部落の外の人たちと部落の人が話す場合に、やっぱり部落の私たちの気持ちはわからんやろ、という言い方がいっぱいありますよね。同時に非常にこうきれいなかたちで、たとえば啓発映画でもそうでしょうけれども、そういう映画を見たときに、どうしても部落の人たちの中でも、あんなきれいごと違うでという思いはあると思うんですね。

 それはそうなんだけれども、じゃあどうやったらわかってもらえるのかと。

 一つの啓発映画でも、これはあくまで材料でしかないわけですからね、それですべて1から100まで全部納得させられるか、っていったらそれはちょっと無理なんやね。だからこそ話の材料として提起しているのだから、そのことを踏まえてもっと深く論議したらええんとちゃうかと。参加型学習とかいろんな学習が流行って、ロールプレイとかいろいろやられてますけれども、それらの試みがどこか私の中でストーンと落ちないのは、部落外の人たちが見ている部落の人たちの弱さ、異質性ですね。

 ちょっと自分たちとは違うな、という部分、そういうものがほんとに参加型学習の中の中心に据えられているのかどうか。言うなれば、部落の人たちが自分の一番しんどいことをえぐりだしてるのかどうか、という問題があるような感じがします。

 私がなぜこれを問題にするのかというと、部落の私たちの弱さが、私たちの仲間の弱さが、まったく外の人に分かってないなら、全然知り様もない状況ならば、まあ中だけで、克服したらええやないか、といえるかもしれないです。

 しかし実際はそうではなくて、部落の中にある弱さ、すべてじゃないでしょうけれども、弱さは周りから見えてるわけですよ。

 見えてるんだけれども、指摘し得ない、ということですね。外の人には指摘できない、指摘したとすれば、お前は何や、と反対に追求されることもあるから、結局黙らざるを得ない、という関係があるように思うんですね。

 そうすると、やはり部落の私たちのほうから、自らの弱さをまずはえぐりだす。そういう作業がなければ、ほんとうの意味での対等な話し合いが深まるということはないのではないか。という思いがあってですね、これでもかこれでもか、と提起してますけれども、趣旨そのものは、ちょっと後で話していきますので、皆さんからもいろんなこと聞かせていただけたらと思うんです。

 私は、去年の5月に今、私たちにとって部落解放運動とは何か、という問題提起をしました。

 これは前回川西さんから配っていただきました、朝日新聞の『私の視点』のもとなんですね。

 これを読んだ朝日新聞の記者が、私の知り合いでもありますが、「住田さん、あれに基づいてなんか書いてみませんか」と言われた。

 自分なりに新聞用にコンパクトに書いてみようと書いたのが、この『自己責任担い対等な対話を』という文章です。

 この短い文章のなかに私の言い分は尽くされてると思います。この文章で私は3点について指摘しています。

 まずは、"被差別部落を取り巻く歴史的な変化を正しく捉える"ということです。

 少なくとも10年20年前と被差別部落の状況は変わってきた、これは間違いない。同時に部落外の人の意識も確かに完全になくなったとは言えませんし、心のなかにはもっと差別意識持ってるやろ、という言い方もありますが、それでも少なくとも、部落差別的な言動を公にするなんてことは、絶対にできない状況になってきているわけですね。

 だからある意味では部落の人たちを蔑むような差別的な言動が行われたとき、部落の私たちだけが怒るのではなく、部落以外の人たちの中でも、「それはお前おかしいやないか、そんなことはないで」、と反応する人たちが増えていることも事実なんですね。

 同対審答申のなかに実態的差別と心理的差別というとらえ方が提起されています。

 実態的差別いうのは、ある意味ではハード面ですね、住環境であるとか、就職の条件であるとか、部落の人たちを取り巻く悪条件ですね。

 これは行政的な手立てで改善していける課題とされてきた。

 しかし、私の捉える実態的差別には、部落差別を受け続けてきたことによる、部落の人たちの傷痕をも、私は実態的差別の範疇にはいると思っています。だから、実態的差別にたいする対応も、当然、外から行政的にいろんなかたちで金をかけることで解決していける部分と、その手だてによって、部落の私たちが負わされてきた弱さ、そのことも同時に解決していこう、ということなんですね。

 だから、それは単なる心理的差別というかたちで、たとえば人々の部落差別意識ということだけではないものとして私自身は捉えています。その点が、実際にはどう変わってきたのか、ということも考えなければならないということが第一点目です。

 次にそういうことを考えていきますと、被差別部落自身による主体的な役割、果たすべき役割について、ということをあらためて強調しています。

 これも30年前にも、部落の私たちが、差別される私たちが、自分たちで努力することも当然あったわけです。

 しかし当時にあっては、それ以前に、もっと外の人たちが、特に行政の人たちが手を差し出し、条件整備するのは当たり前やないか、という風潮が非常に強かったことも事実だしある意味では当たり前だったでしょう。

 私もそのときに部落の私たちがやるべきことはあると気づいていたとしても、多分言えなかったと思うんですね、30年前は。

 しかし、この30年間の運動、行政的な手立てを経過した中で、自分たちほんらいの課題をも、それを同じように行政責任や、学校の責任や、先生なんとかしてと言えるかどうか、と考えればそうとはいえないではないか。確実に、私たち自身が果たさなければならない分野も、大きく広がってきている、という認識を私自身は持っています。

 3番目はですね、被差別部落住民と他地区住民との自由で対等な交流ですね、コミュニケーションの深まりという課題です。

 これは残念ながらまだ充分ではないと考えています。

 これまでも多くの場合行政の人たちがなかに入ったり、先生が仲立ちしたりして、直接対等に話すことが少なく、なんか煮え切らない感じがあるという気が私の中にはあります。

 だから、そこをどう乗り越えていくのか、という問題です。ただ、これはそんな簡単な問題ではないですね。

 これも奇異に聞こえるかも分かりませんが、同和対策事業を一生懸命やってきた、そのことを否定するわけじゃないんですが、そういう同和対策事業が部落の人たちのためにというかたちでなされればなされるほど、結果的に部落と部落外の人たちとの溝を深めてしまったんではないか。

 たとえば、外の人たちにとって、同和地域でどのような対策事業が行われているのか、ということは非常に分かりにくいですね。

 対策も含めて。

 彼らが直接、行政側に聞くという場というのはほとんどない。

 でも、行政の人も公に聞かれれば答えざるを得ない。学校の先生も答えざるを得ない。

 そうすると学校の先生や行政職員も納得するようなかたちで説明しきれないこともありますね。矢面に立ってる人が行政の人であったり、先生であったりするから、直接部落外の人と部落の人が直接交流する、「これは実はなあ」と話し合うことがない。たとえば、大阪では、部落に作られた保育所の保育料は最初つくられたときには、一般保育料の半分であった。

 当時の部落の人々の収入から考えれば、経済的に大変でしたから半分と決定された。

 それなりに整合性もあったのです。

 その後、20年間一般の保育料はどんどん上がっていったんですね。

 しかし、部落の保育料は据え置かれたままでした。

 格差が出て当たり前なんですね。

 ところがそれはどう見ても、それでええ、当たり前やいうことにはならんわけです。

 多分、大阪ではその矛盾に気づきだして、それなりの負担も必要ではないか、ということで、七年間スライド制を導入して徐々に値上げしていこうということが進んでますけれども。

 その一方で部落の人のなかにも、これで当たり前やないか、これは既得権や、私たちはいまでも差別されてんねんから、そんなもん安いのは当たり前や、と開き直る人もいます。

 しかし、その意見も、30年前と同じような経済的な状態のまま部落が放置されてきたのなら、いいつづけることも可能だったでしょう。

 でもそうではなくて、30年間いろんなかたちで経済的な条件でも恵まれるような対策がなされてきたわけでしょう。

 生活力だって確実に上がってきてるわけです。そうならば当然、30年前に半分だったものを今も同じ既得権やと言えるのかどうか。言えないと思うんですね。

 まあ、そういうこともあったという意味では、外の人から、「部落だけなんであんなに良うなんねん」、「部落の人だけがなんであんなに安いねん」という声がでてくることも当たり前ですね。

 これらの声のすべてが正当な声だと私も思いませんけど、だからといって、反対にすべてそれはねたみ差別や、と言えるのかどうか、という問題が今問われなければならないと思うんですね。

 確かに妬みの部分がないとは言えないと思います。

 でも妬みというかぎり、たとえば家賃、大阪における私の家賃との、大きな差額が正当であると認めさせなあかんわけですね、実際には。これはやはり非常に難しい問題です。

 唯一してきた方法は、私たちは部落差別を受けてきた、受けている、今後も受けるだろう。あななたちは部落差別を受けることはない、だから差額はその代償やという言い方でしたね。

 これではやはり説得してないと思いますね。それでは私たちが対策を受けてきたんは差別を受ける代償かと、そういう言い方になりますね。

 確かに、20年ぐらい前ですけれども、いろんな場で話す機会があったとき、地域の指導者がよく言ってました。「実はあなたたちと私たちは違う。同じ貧乏のように見えるが、貧乏の質が違う、あなたたちの貧乏は言い方悪いけど、自己責任で貧乏になった、しかし私たちの貧乏は部落差別で貧乏になった、だから違う。私たちが特別な対策を受けるのも、当たり前や」と、「もし文句あるんやったらいつでも代わりまっせ、それも差別付きでな」と、当然のように言うてた人がおったですね。

 聞いている私は複雑な思いでしたが。それがひとつの説得の方法で、それで説得できたと思てたんです。

 多分、その理屈を納得してる人は誰もおらんかったと思いますけどね。

 ところが、納得してないとも言いませんから、なんかそのままになって、講演会終ってから、舌は出さへんけれども、「何あの人」と思われてたと思うんですね。

 そのすれちがいが非常に大きいと思います。

 この指摘は今までやってきたことを全部精算主義的に否定しているわけじゃないのです。なぜ、今日部落と部落外の人たちが、自由な対話の場を持ち得ないのかというところを私は問題にしたいと思ってるだけなんですが。残念ながら今言ったような経過のなかで、部落外の人にとってはある部分あきらめがあるんですね。

 やはり、今なぜ部落と部落外の人が自由に話し合う場がないのか、というところを充分に考える必要があると思うんです。

 たとえばこんな例もありました。

 どこでも私は話すことなんですが、一番当たり前のことでありながら、避けざるを得ない中味としてあると思うんです。

  今日学校の先生がおられたら、多分一番しんどいところだと思います。私の長女が中学2年生のときだったと思うんですが、長女と小学校も同じで、クラブ活動も同じ親しい友人が、同和教育の授業が終ってから先生に聞いたそうです。

 「先生、部落差別は今でもあるんですか」先生は当然「あります」と答えます。

 「じゃ先生、部落はどこにあるんですか」と聞く。

 「部落どこですか」と聞かれても、私の地域では解放運動もあり、積極的に地域を顕在化していますから、当然「住吉東の横にある団地だよ」と。

 「そうですか」。

 3つ目に彼女はこう聞いたそうです。

 「先生、それなら部落民は誰ですか」。

 「部落民は誰ですか」と聞かれて先生が、この子とこの子とは答えられないわけでしょ、実際には。そんなこと言えない。

 ところが今までは、普通に考えてですよ、部落差別があって、部落があるなら、当然部落民がいて当たり前ですよね、これ、普通ですよね。

 ところが、これまではそのような質問は、タブーと見なされ、オブラートに包んだままにして、しないものだ、ということになっていた。暗黙の了解ごととして。

 だから、部落や部落民を目の前にということにはならん、という難しい問題があるんやね。

 このエピソードは今日でも部落問題を考える上で非常に重要な課題を孕んでいると思いますね。

 相手に顔が見えないんですよ。対話というのは顔と顔を見せなければ、目と目を合わせてはじめて対話といえるんですよね。対話しようと思っても、向こうの顔が見えなければ誰と話するんやという問題がでてくる。

 そこで私は20年ほど前から、カムアウト=部落を名乗ることを提起してきました。

 多分、部落の人にカムアウトを強要することはできないと思います。できないと思うんですが、少なくとも、隣りにいる友人、手をつなごうと思う人に、自分が一番拘っていることとして、自らの出身をカムアウトする、横の彼なり彼女に部落を名乗るということ、その行為が非常に重要であると考えています。双方のコミュニケーションを成り立たせるためにもですね。

 こちらでやってるかどうか分かりませんが、いわゆる同和教育の先進といわれる地域では、部落民宣言という教育実践を子どもたちを励ましなら、自らの社会的立場の自覚を促すためにと、半ば強要するようなかたちで行ってきた歴史があります。

 私もこの実践を推進していく側におったわけですから、自分の責任も免れないんですが。よく考えると、やはり間違いとまでは言えないけれども、非常にしんどい実践やったと思うんですね。

 なぜしんどい実践だったのかと今から考えれば、部落を名乗るなんてことは、ある意味でもっとも子ども自身の主体性・自主性が問われる実践ですよね。

 自主的に、自らの責任で名乗るわけですから。

 ところがこの教育実践ではほとんど、子どもたち自身の自己責任は、ほとんど考慮されることがなかったといえます。

 各地の実践では、学校の先生が教室でその場面を整える必要があった。

 地域に行って、「実は今度、クラスでお子さんに部落民宣言をしてもらおうと思ってます。宣言にはこのような意味があると考えています」と両親に話す。

 当然、親は、「先生なあ、部落民宣言するうちの子はまあええかもわからんけれども、実際、部落差別するのは外の子やろ。外の子にちゃんとした対応せんとうちの子だけ部落民宣言やったって、そんなん困るわ。やるかぎり、絶対差別に遭わんように、絶対いじめなんか起こらんように、その体制をつくってからやってや」と注文つけるでしょうね。

 そうすると先生は「いや、そんな責任は持てません」とは言えない、「あ、はい」と答えざるをえないでしょう。

 部落民宣言が行われる教室内は緊張してるわけです。

 先生が緊張してるわけやからね。

 そういう<上げ膳据え膳>の状態の中で部落出身生徒が、「ぼくは部落民です。勉強の遅れを取り戻すために、他の教室で勉強してきます。早くこのクラスでみんなと一緒に勉強できるようにがんばります」と発言する。

 この実践はいったい何だったとかとの疑問が起こってきます。

 どう見てもこの実践は縦の関係です、上(部落出身者)から下(非部落出身者)に伝えるという、一方通行の関係ですね。

 でも他のクラスメイトも先生の緊張した感じが分かるから、「疑問があっても、それは言われへんな」と言葉を飲み込む、なんか腫れ物にでも触るような関係でしょね。

 これではやはり、ほんとの意味で部落の生徒には力がつかなかった、と私は考えています。

 いいときはいいんですよね。前進してるときは。前向いてやってるときは、ぱーと大人も子どもも部落民宣言を行える。

 ところが人生ですから、いつもいつもいいときばかりじゃないですよね。挫折するときもあるわけでしょ。

 そのとき、返す刀で誰を切るかというと実践させた先生を切りますよね。

 「俺はやりたくなかったけど、お前がやらしたんやないか」とこうなるわけです。

 先生もたじたじですから、結局立場が逆転してしまって対応しきれない、教育的指導もしきれないという問題も起こってしまう。

 これは子どもの責任というより、ある意味で子どもはそういう二面性をたえず持っているわけですからね、いつもいつも前向いてるばかりじゃないですから、そこのところにやはり落とし穴があったと考えられますね。

 同時に、なぜそのような実践が迫られたのか、それは同和対策としての教育実践だったからですね、大阪の場合は。

 部落民であるということをはっきりしなければ、教育の実践が進まなかったんです。

 これは多分篠山ではちょっと分かりにくいかも知れませんので、大阪あたりでのことを若干説明します。

 1969年特措法が施行されて以降、解放教育の現場はどんどん変わっていきました。

 大阪市の場合は、すごく進んだ先進地域や言われてますけれども、私自身は先進地域だとは思ってないですね。

 ま、金はようさんありましたけれども。金と人はどんどん注ぎ込みましたが、中身はそんなには進んでないですね。

 よく大阪の同和教育を揶揄して大名同和と言われてますね。

 そういう状況でしたから、やはり具体的に子どもたちのなかに入っていくということが少なかったんですね。

 複数担任制でしょ。複数担任制は二人の担任が子どもに具体的に関わりますから、まあそれはそれでええと。

 次に促進授業、そのもう1つ進めば抽出促進授業なんです。

 中学3年の英語の授業で、部落の子どもは中1段階のアルファベットすら心許ない。一斉授業でこの子どもをどうすることができるのか、これは分かりますよね論理としては。

 それなら、この子どもは一斉授業にはついていけないのだから、まずそのクラスから抽出して、別の教室で先生がマンツーマンで教える、力がつけば原学級に帰る、これはある意味ではものすごく合理的な考え方ですね。

 ところがですね、子どものほうから疑問が出てくるわけです。

 「先生なんでAちゃんだけ出るの?」
 「いや、勉強が遅れててしんどいからだよ」と、一般論でしか答えられない。

 子どもはそんなことで納得しません。

 「先生勉強でけへんのAちゃんだけちゃうやない。BちゃんもCちゃんもDちゃんもでけへんで。なぜ?」というわけです。

 これははっきりしてるわけです。

 Aくんは被差別部落、他の子どもたちは被差別部落出身やない。だから同和対策事業でおりたお金だから、対策に対応するのはこのAくんだけ、ということを言っただけ、言わざるを得なかったわけなんです。

 教育の現場での対策事業の問題があるわけですよね。

 本来、教育現場で、経済的にはどうかは別ですけれども、実際に授業をやっている場合に、あなただけが対象で、あなたは違います、ということはいえないし、あり得ないですね。どうしたって矛盾なんです。

 この矛盾を解決するために何をしたか、部落民宣言をさせたんですね。子どもに部落民宣言させるわけです。「私は部落です、だから頑張ってきます」と宣言するとはじめてなりたつ教育実践でした。

 だからここにはものすごく無理がある。これは多分、私は先生方を批判しているということだけじゃなく、いわゆる対策が持つ、教育現場における対策事業の矛盾なんですね、特に教育の中味に関して、対策事業的な対応が大きな矛盾を孕んでおった、ということが言えると思うんです。

 だから部落民宣言する。部落の生徒にしたら、別に何の必然性もないわけです。

 ところがわざわざそこでさせられる、ということがおこっていた。こういうところに今の、部落民宣言の、私矛盾・課題があったんじゃないかと思います。

 それに比べて、私が提起するカミングアウトというのは、そうではなくて、やはり横の関係ですね。

 自分が友達になりたい、この人なら信頼できると思うその友達に、自分が拘り続けてきた課題はこういうことなんだよということで、部落民であるということを語る。

 私の中にあるのは、自分自身を見つめるということ、部落の私たちが自分自身を見つめたときに、客観的に差別される現状があるということ、そういう状況の中で自らを成長させていく、その一環として、部落民宣言という方法で外に対して働きかけるというイメージなんです。

 そういう状況の中で、カミングアウト=部落民であることを名乗るということは非常に重要であると、名乗るということはさきほども言ったように、顔と顔を見せ合うということ。その顔と顔が向き合ったときに初めて、論議が進むんじゃないか。

 私たちが部落民宣言しても、少なくとも私には、7割から8割の人たちはその部落民宣言にちゃんとしたかたちで応えてくれるだろうという確信がありますね(ちょっと楽観的かも知れませんが)。

 だからこそ、呼びかけるんですね。

 すべての人がすべてそうじゃないだろうと、そんなことやったら差別されるかも分からんやろと言う人もいるんですね。

 それは当然のことだと思います。

 でも私は、黙ってたってそういう人は差別するんやから、明らかに差別する人が見えただけでもはっきりしてええやないか、こんなかたちで差別するんか、と具体的にぶちあたったほうがええやないかということうを私は言ってます。

 それでも今、差別する人が、そんなにおおっぴらなかたちで差別できるかいうたら、そんな状況ではないと思います。多分ね、黙るというかたちで、あったとしてもね。

 そういう意味では積極的に部落問題を話す、部落側から名乗るということがあってもいいんじゃないかと考えてきました。

 でもう1つは、奈良県の同和教育実践会というのがあります。

 これは部落出身教師の会なんですね。

 奈良県では、保育士、小学校の先生、高校の先生を入れれば、約500人にも達するそうです。

 で、その会はものすごく伝統のあるところです。全同教委員長にも選ばれた先生たちも、この実践会で頑張っておられた、その総会に呼ばれて話したんです。

 従来は部落の出身教師はどちらかといえば、校区に部落がある場合には、出身教師は部落のお母ちゃんたちの思い、それを教育現場に反映する。どちらかといえば、部落の方に軸足を置いて、それで実践を進めてきたという経過があったんですね。

 当然そちらのほうに足を踏み入れていますから、やさしいこともあるし厳しいこともやらなあかんわけですよ。

 で、何を期待されてるかといえば、部落の人たちの代弁だったんです、ある意味では。

 この3月でちょうど対策事業が終る、こういう時期に、従来と同じようなかたちで部落の側に出身教師が足を置きつづけていていいのかどうか。私はそうではないと考えています。

 これからは自分達の足は、部落の外に足を置く。部落の外に足を置いて、部落の人たちが抱えている課題、それを引き出す。部落の内と外の橋渡しをする必要があるのではないか。そうでなかったら、課題も見えてこないですね、もう。

 今は、部落外の人と部落の人が丁丁発止と議論を戦わす状況でもないですね。それは部落問題そのものが随分薄められているということでもあるし、同時にどちらも避けたいという課題でもあるんですね。

 だからどうしたって、放っておいたら何も進まない、多分。すでに表面的にはそんなかたちのある課題はほとんどない。

 部落出身教師が、従来と同じように部落内に足を据えているとするなら、部落外の人たちにとって、やっぱりあの先生は向こうよりやから、ということで、門前払いをくう場合が多いと思います。

 そうではなくて、今部落外の人たちは何を考えているのか、こんなことで疑問を持っている、その立場に立って、そこから部落の様子を見たときに、また違う目で見える、少なくとも部落外の人たちが、差別的な眼差しで見てたとしていても、部落出身教師はそういう目では見れないから、それでも少しは加味しながら、やっぱり違う角度から見える部分があると思うんですね。

 まあ、そういう意味で、私は今後、出身教師の役割というのは、部落外に足を置きながら、部落と非部落の間をですね、部落間の間をどのように橋渡しするか、いうことが大切になってきているのではないか、と先日話してきたんですけれども、そういう状況まで今、変わりつつあるように感じています。

 まあ、レジメに書いた部分も若干読んでいただいたと思うんですけれども、3つのことだけ触れておきたいと思います。

 1つは、『このような視点から私は80年代の開始とともに以下の文章を綴ってきた』と書いてますけども、これはちょうど'81年だから、今から20年前なんです。

 20年前にたまたま大学での先生であった田中欣和先生が『解放教育論再考』という本を出すときに、何か書かないかということで私が初めて書かせてもらった文章の一節なんですね。

 この文章がある意味で私の原点になっている。それ以後部落問題を考えるときの。

 ちょっと読んでみます。「とくに部落差別の歪みが外面的な生活の劣悪さとしてストレートに現れるだけでなく、内面的な人格形成のうえで重要な役割を担う"学習の場"を奪われてきたために背負い続けなければならなかった部落大衆の"弱さ"としても存在することの意味を無視することはできないのである」と私は書いたんですけれども。

 差別されるという現実はやはり、自ら学ぶ場、そのものからも疎外される、という事実があるんですよね。どうしても部落外の人たちから見るとき、充分捉えきれない部分がある。じっくり物事を考えていく以前に、生活に追われざるを得ない状況の中で自らを削ぎ落とすというか、充分に力をつけれなかったという部分があるように思います。

 それから、今日の部落解放運動への警鐘でもある、『同和こわい考』より私は引用しています。

 それは、多分皆さんも読んだ方がおられると思いますが、これもそうなんですね。「差別は人間の尊厳を犯すといいますけれども、しかし差別は、差別される人の人間性をもゆがめるともいえます」、前回に話した金 時鐘さんの言い方なら、いわゆるエゴイズムですね、差別される側のエゴイズムと差別する側のエゴイズム、ということにも関連するんだと思います。

 「部落解放運動をみるとき、『差別の結果』という分析はあっても、崩壊させられていっている感性をどう取り戻すかが、ほとんど語られないのはどうしたことか。私はいぶかしく思っているのです。 『傲慢さを許しているのが差別だ』という声は聞きますが、その傲慢さの中で、人間がダメにさせられていっていることへの警鐘が鳴らされていることが、あまりに少ないのはどうしてでしょう」ということを藤田敬一さんは言っています。

 これは部落の人たち、運動をしている人たちを揶揄しているわけでも何でもなくて、彼は部落出身じゃないですけれども、京都出身で差別の非常に厳しい状況の中で育った人です。

 京都大学で学びながら、そこで目覚めるというか、部落問題に30年近く関わってきたうえでの、今日的な彼自身の総括なんですね。

 部落の人たちの立ち上がり、劇的でもあったそれから学んできたことはいっぱいある、しかし、同時に積み残してきたこともあるのではないか。

 それは反対からいえば部落解放運動といっしょに、ともに、つかず離れずで参加してきた藤田敬一という人にとっても、何が積み残されてきたのか、ということを絞り出したひとつの総括だったという感じはします。

 先の私の稚拙な堅い文章も、意味はこの藤田さんが言ったことと同じだと思っています。

 次にこれは私の父親がよく言っていたことですけれども、「・・・折りにふれ父が語った部落問題は、"光り輝く"部落解放運動だけでなく、多くは地域内での被差別部落大衆の具体的な日常生活(拝金主義、子育て放棄、活字文化との遮断、学歴不用論等々)に色濃く反映している部落差別の影=部落大衆の「低位性」についてのものであった」と。

 延べにするとほんとに何十時間も、親父と激論した経験がありますけれども、大学入りたてのころはほんとに夜中の2時3時まで侃々諤々と論議してました。

 うちは三軒長屋ですから、両隣には筒抜けなんです。いつもお母ちゃんがはらはらはらはらして、横でもうやめときもうやけときと言うてましたけど。

 まあ、そんななかでですね、父親が感じている部落差別の傷というのは、差別される、表面的に差別されるということではなくて、やはり部落の私たち自身の中に巣くってる考え方、非常に遅れた考え方、というようなことを私は聞いてきましたが、そのことは非常に扱いにくいんですよね。

 やはり、外の人にどうわかってもらうかというのは。

 でもこのことを明らかにしなければ、部落の内実も判ってもらえないんではないか、という思いが父親の中には非常に強かったと思います。

 そのなかで私自身はやっぱり、部落解放運動のすばらしさを認めることには、人後に落ちない気でいますけれども、でもほんとの意味で光り輝くというのは、ですね、弱さ、影、影の部分に光を当てて、その影の部分と格闘しながら、それと取り組んでる姿そのものが、より光を輝かせるんとちがうかなと、私は考えてきたんですね。

 光の部分ばかり強調したところで、それはもうひとつ見えないですね、でも、影の部分とのコントラストで初めて光る部分もはっきり輝くんではないかと思っています。

 次は小笠原さんが言ってることなんですけれども、私もこの言葉が非常に好きです。『共に在ること』という本の中で、この人はキリスト教の方で、長く私立の中・高校の先生をやりながら、同和担当をされた方です。この本の「差別における人間の問題」という一章で次のようなことが書かれています。

 「たとえば、被差別の側に見られる諸現象はすべて被差別の立場と結びつき、それによって規定されています。しかし彼が置かれている立場と、その立場の持つ悪条件に対して、彼がどのような態度をとるかという基本的な在り方は、どこまでも彼自身の自由と責任に属しています。彼はすべてを免罪されているわけではありません」という文章です。

 これは確かに部落の人たちに対してだけじゃないですよ。すべての人に言えることですね。

 たとえばいろんな言い方ありますね。

 「わしはこんなに生活が貧困だったから、条件が悪かったかったから、だからこういう弱さを持ってるんだ」とか、あかんとかええとか、いろんな言い方ありますよね。

 部落だけじゃなく他の人たちも。

 でもそうなんだけれども、いろんな、たとえどのような条件、悪条件であろうとも、最終的に責任とるのは自分なんだ、他に責任転嫁し得ないんだ、ということを言ってるんですね。

 この指摘はすごいと思います。

 また、彼は、「被差別の側は単に差別の側に対して否定的に迫るばかりでなく、自己自身に対しても批判的にかかわり、自己否定の原理を確立しない限り、真の解放はあり得ないのではないか」と言っています。

 「被差別の側が自己に批判的にかかわることは、差別側の想像を絶するきびしさを要求されるのであるが、そのきびしさのなかからのみ新しい世界の人間性と倫理性が鍛えられるのではないか」とも。厳しいのは当然だと分かりながらも、それと取り組むという姿勢そのものが、われわれの強さ、倫理性であり、そういうものをつくるんだ、と。

 こういう言い方は全同教での分科会や他の集会でもよく聞きますね。

 部落の人たちのすばらしさや誇りということもよく聞きました。

 ああいう厳しい状況の中で、その状況と立ち向かいながら自己実現してきた人たちが、素晴らしくないはずはないんですね。その事実を認めるのはやぶさかではないです。

 しかし、すべての被差別部落民がそういうかたちで自己実現を達成し得るのか。

 もし、し得るのなら、部落差別によってし得るならば、部落差別を残しておいたほうがええやないか。部落差別があるからええ人、すばらしい人になるんやったら。

 しかし現実はそうではなくて、確かにすばらしい人もつくられているけれども、多くの人は部落差別に負けてるんですよね。

 だからこそ私たちは部落差別をなくするという運動をやってるんですよね。そこをはきちがえて、なんかすごいものがあるかのごとく言う人がいますけれども、それはもう贔屓のひきたおしで、思い入れだけではどうしようもないと思います。

 そういう意味では、小笠原さんのような覚めた目が、非常に重要なんではないかと思います。

 それから被差別側の3つの危険、これも実はもうちょっと長い文章です。

 エッセンスだけ紹介してますから、ちょっと分かりにくいかも分かりません。

 私たち被差別側が陥ってしまう危険を彼は3つ挙げてるんですね。

 1つ、被差別者が、差別の圧倒的な非人格的な、殺意のこもった力を前にして、自分を見失ってしまう危険です。

 自分を見失うということによって、たとえばまったくそこで逃げるということもありますし、反対にそれで反撃するということもありますが、どっちにしろ非常に動揺してしまうということなんですね。

 次に、差別の力に負けるどころか、相手の差別的偏見、特に恐怖感を逆に悪用して、相手から自分の利益を引き出そうとすることへの誘惑です。

 これはいわゆる利権の問題なんかで多分ご存知やと思います。そういうことを彼は言っています。

 3つ目、被差別者が自分の被差別性にとらわれ、他者に対して心をひらくことができなくなる危険です。こういうことを彼は言ってるんですよね。

 これ中味はもうちょっとじっくり説明しますけども、でもやはりこういう危険をわれわれはたえず、背中合わせに持ち続けているという自覚は、非常に大切ではないかと思います。

 先程から言っているように、部落外の人たちが、特に学校の先生や行政の人が一生懸命、おんぶに抱っこというか、私たちが乗る神輿を一所懸命担いでくれている。そういう状況の中にどっぷり浸かってしまうと、自己自身が分からなくなる。

 今でこそそんなことはないでしょうけれども、ここ10年20年前は、部落の人が講演に来るとすると、もう、下にも置かなかったというか。もう、「はあ〜、ご無理ごもっとも」、と言うてたんじゃないですかね。

 ちょっとおかしなこと話していても、さすが部落の人や、と聞いてたと思いますよ。

 しかし、それはね、ほんとの意味で部落の人への対等な対応ではなかったと思いますね。

 部落の人はある意味で人がええ(世間知らずでもある)ですから、そんなかたちでおだてられるとすぐその気になってしまう。「俺、いつのまに、こんなに力がついたんやろ。みんなええ話やええ話やいうて聞いてくれた」と言うんですね。

 言葉悪いですけれど、「それはちょっとおちょくってんとちゃうかな、おちょくられてんとちゃうかな」と思います。

 やはり対等な関係でなかったら、自分たちが話してる内容が深まらない、ということがおこってきたんじゃないか、と私自身は思います。

 ただこの弱さは今でもあります。今でもやはり、部落の人たち、特に活動家をですね、よいしょしてしまう人がまだおるんやね。そういう状況では、それは部落の人たちの課題だけではなくて、当然、よいしょする側の問題も大きいです。だからやはり、人と人との関係というか、相互の弱さでもあると私自身は考えています。

 最後に、ひとつ問題提起をして、あと皆さんの質問とか意見を聞きたいと思います。

 こんな硬いこと言うなと言われるかも分かりませんけれども。

 私自身も前のほうで、金 時鐘さんの話とか、金 石範さんの話の中でもちょっと触れたかとも思いますが。私たちが勝ち取ってきた同和対策事業というのは一体何だったのか。そのなかで私たちは何を学ぶ必要があったのか、という問いに対して、大きな示唆を受けた一つの文章を最後に載せています。

 だいぶん古いんです。アルジェリアの独立戦争ですから、1960年なんですね。そのあと’62<3年に、フランツ・ファノンという人が、『地に呪われたる者』という本を書いています。

 その一節なんです。

 まあ、読んでみます。

 「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人々の意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい。市民は従来どおり、泳ぐか渡し舟を乗るかして川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものではない。」

 社会の全景、んーと横文字ですけど、機会仕掛けの人形ですね、空から機械的に落ちてくるというようなことです。

 「社会の全景に、デウス・エクス・マキーナによって押しつけられるものであってはならない。そうではなく、市民の筋肉と頭脳とからうまれるべきものだ。市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめていっさいが可能となるのである」と。

 この橋というのを、私は同和対策事業やと思ってるんですね。

 同和対策事業というのは本来、そのことによって、自らを鍛えないならば、まあ、今から要らないとは言えないですけれども、それはやはり、マイナス、そういうふうにおんぶに抱っことなるのであれば、それはなかった方がよかったと。

 翻訳者の鈴木さんが書いてますけれども、ファノンの思想というのは基本的に「橋をわがものとする」ことだと。だから私たちにも同和対策事業で勝ちとった多くの対策をですね、「わがものとする」という思想の獲得がやはり求められているではないか。誰かから与えられるもの、だからそれにのっかっていればよいというものではなく、そのことを土台に、自己実現をしていく、自分自身をつくっていくことが求められているのではないか、と私は考えています。
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