『同じ目線で出会うことの大切さについて』
「ハートで勝負!」を合言葉に、多方面で活躍する篠山鳳鳴高校インターアクト部。
ボランティアサークルとして発足して以来、特別養護老人ホームでの介護活動、兵庫県南部大震災救援活動、海外ボランティア研修などをとおして体験された、様々な感動、あるいはとまどいを語っていただき、人と人とが出会う時の、心のあり方について考える。
(参考資料添付)



参考資料 『同じ目線で出会うことの大切さについて』

テーマ── 被差別少数民族アエタ族との交流から学んでいるもの

講演のねらい── 歴史的に強烈な差別を受けてきたアエタ族。そのため、かたくなにフィリピン人や外国人を避け、村の扉を閉じて、他者に笑顔を見せない村人。そのようなルソン島の山村で高校生、大学生はどのようにして交流を進め、村人から「家族」と呼ばれるようになったのか。

1992.4.ボランティア同好会「小春の会」発足
クラブの合言葉は、「ハートで勝負!」
☆〔生徒の感想〕@ 「ボランティア活動を通じて、多くの人と出会い、多くのことを学んだ。そして、今まで自分が、どんなに狭い世界で生きていたかを気づかされた。私が接してきた人々とは、家族とその周辺の人々だけだったのかもしれない。

特別養護老人ホーム(老人・障害・病気・プライベート)
・ 障害者にかかわっている
@ 同じ目線で  A相手のペースに合わせる  B声かけをする
・ 生徒の「・ 心」・ は、お年寄りの「・ 心」・ に届いているか。
☆〔生徒の感想〕A 老人ホームではいろいろな人がいらっしゃったけど、本当に心を込めて「笑顔」で話し掛けると「笑顔」で答えてくれました。「心」と「笑顔」は、これからもずっと大切にしていきたいと思います。
☆〔生徒の感想〕B 「寝たきりのおばあさんは、手を握って、涙を流しながら何度も何度もお礼を言ってくれました。心の中にあたたかい色をした何かを頂いた気持ちがします。」

篠山養護学校(子ども・障害・教育)との交流
  ・(養護学校の先生)「出会った瞬間で手をつなげる人かどうか、養護の子どもはわか
る。」
 ☆〔生徒の感想〕C 運動会を手伝って思ったことは、もっと私たちが養護学校について知るべきだし、もっと私たちから交流すべきだと思いました。
養護学校の皆さんは、精一杯心を開いてくれるのに、私たちが閉鎖的になっているから距離は全く縮まらないのではないかと思いました。私たちは同じということを忘れているのではないでしょうか。
☆〔生徒の感想〕D 今日、私はお手伝いや応援しかすることができず、養護学校の生徒さんたちとお話ができなかったことが残念です。いろんな障害を持ちながらも、自分のできることを一生懸命頑張っている姿を見ていると、すごく励まされ、感動しました。

(4)兵庫県南部大震災救援活動(特別活動) ─平成7年1月〜10年5月─
  ・職員会議で承認──鳳鳴高校の救援活動はインターアクト部を主体にする(一般生徒、教員、PTAに拡大)、和寿園の要請(緊急収容者の介護サポート)に応じる
  ・クラブ員は公欠で被災地へ。避難所、集積センターその他
☆〔生徒の感想〕E 僕はそこで避難所にいる人たちにお菓子を配る作業をしました。あるおばあさんにお菓子を配った時のことでした。2,3言葉を交わしていると急におばあさんが泣き始めたのです。僕が困惑していると隣にいた人が、「この人は、あんた位の息子を震災で亡くした。」と説明してくれました。僕はその時、かける言葉がどうしてもわかりませんでした。

  ・Aさん、避難所より和寿園に緊急転送、「夜中に救急車で山奥へ、捨てられると思
った。」
   「和寿園に緊急収容されるお年寄りの背景を知っておこう。」そのための被災地救援活動をしよう
  ・仮設住宅訪問 ── 3年間継続。開設と同時に活動を開始した。
             孤立している老人を訪ね歩いた。
  「独居で障害があって外出できない人はいませんか。」→ 話し相手のみで、“物”を持参しない。
     A夫婦さん(すべての人を拒絶→クラブ生徒のみ対話)
     B(女性)さん(閉じこもり、病気→回復)
     C(男性)さん(妻を亡くして閉じこもり→回復)

(5)アメリカ・ボランティア研修(1997,1999,2001)
  ・実施した理由── ボランティア先進国に学ぼう。日頃の活動で身に付けているものが、言葉や文化の異なる外国でも通用するか。
・フードバンクでは、ロシア人、韓国人、ポーランド人、アメリカ人に混じって作業をした。生徒たちは、慣れた様子で作業をし、以前からのメンバーのように見えた。
(風景に溶け込んでいる)
・夜のホームレス・フードサービス── 緊張からなごやかな雰囲気に。
☆〔生徒の感想〕F それでも私の顔は緊張してこわばっていたのか、一人のホームレスの人に“smile”と目を見て言われた。“えっ、私のことか?”と少しドキドキしたけど、ニコッと目を見て笑って見せると、“good!”と笑顔で答えてもらえてとても嬉しかった。言葉(英語)は必要だけど、他のどんなものよりも大切なのは「心」なのだと実感しました。→ 「言葉の壁は越せる。」
(6)フィリピン・ボランティア研修
  ・ピナトゥボ火山被災地の「緑化活動」と少数民族アエタ族に「教育の大切さを伝える」、「村人との交流」が与えられた課題。
・アエタ族── 被差別少数民族。ピナトゥボアエタ族は約3万人、狩猟・焼畑による原始的生活。教育を拒絶。山中に自由を求めて逃避的生活。
・1999,2000,2001,2002年の各3月に(高校生)実施。
・2001,2002年の各3月、8月に(クラブOB・OG大学生)実施。
・丹波グリーン・フォース ─Tanba Green Force─ 「丹波緑化隊」は、高校生と大学生による海外ボランティアグループ。現地活動体験者は高校生延べ40人、大学生延べ30人。

(7)物を持ち込まない→残された唯一の交流方法は、「心」と「笑顔」。 
富田一也(IKGS緑化協会・現地駐在員、元青年海外協力隊員)さんは、短時間で日本の高校生とアエタの少女(パートナー)が、身振りと顔の表情、その場の雰囲気などで次、次と会話を成立させてしまう様子を見て、どうしても解せないので聞いてみた。
富田「なあ、マリセル、君たちはどうやってお互いの意志の疎通をしているの?」
マリセル「えっ、別に…… 、ただなんとなくMIKOちゃんの言いたい事がわかるの。」
MIKO「私もなんとなくマリセルちゃんの言いたい事がわかるの。」
富田「??? じゃあ、言葉は何を使っているの? 英語?」
マリセル「言葉なんて関係ないよー、スマイル! スマイル!」
MIKO「そっそっ、スマイル! スマイル!」
富田「・・・うーん、スマイルねえー」
☆〔生徒の感想〕G ブアグ村を去る時は、涙と悲しみで心がいっぱいでした。頭の中は繰り返される数々の思い出が、悲しみと涙を作り出していました。泣いている私に村の人たちやパートナーがたくさん声をかけてくれました。でもかけてくれる言葉は私のわからないアエタ語。でも、この時だけはみんなが何を言っているかが分かりました。言葉が日本語に聞こえてきたのです。この時、初めて、心と心で話している、心と心のつながりを身をもって感じました。
☆〔生徒の感想〕H 子どもたちのきれいなひとみが、私たちの青空教室を通じて、より一層輝いているのを見るとマジ嬉しくて、もしかすると自分の瞳も輝いているのかな、と思った。

(8)教育の大切さを伝える
  S子のパートナーの例──無断で家出を決心(家族は大騒動)→マニラへ→小学校に入学、1年後優等生で卒業→ハイスクールへ進学

(9)差別の壁にむきあって
   アエタ族の村のボランティア活動では、「物を持ち込んではいけない。」と指示されてきた。村人は出会った瞬間に、訪問者が自分たちに対する差別感を持っているか、いないかを識別するという。高校生は、この出会いに自分のすべてをかけてきた。自分の「人柄」と「心」に頼るしか方法が無い。言葉に依存できない──ことは結果的には良かった。
   「心」と「心」で向き合う事が、国・人種・民族間の差別の壁を越していける。1度、このような体験をした高校生は、アエタ族の村を「私の故郷」と呼んでいる。

  ◆〔村長さんの言葉〕 あなたたちは、私たちの家族です。私たちはあなたたちのために、村の扉を開きます。あなたたちが日本へ帰ったとしても、ここで共に植えた木は、ブアグの村で生き続けるのです。あなたたちとわたしたちはこの木を通じ、ずっとつながっているのです。
☆〔生徒の感想〕I 私はこの旅で、ここに生きている自分が幸せだと感じました。それが私のこの旅の答えであるかもしれません。誰かが幸せだと感じる時、その人を幸せにした人もまた幸せを感じます。幸せは伝達します。「笑顔」とともに。言葉なんて必要ありません。どこにでも通じる最高の言葉・・・・・・「笑顔」があれば。ありがとう。
☆〔生徒の感想〕J 三日目は、私の心を一番熱くした日!!! 3班に分かれ、青空教室、植林、井戸掘りとローティションで行った。まず私たちマンゴー班は青空教室。数百年もの歴史あるマンゴーの大木の下で開始。心の中で「ゆっくり、はっきり、FACEで表現、これが基本。」と繰り返しながら、夢中で教えた。「三角カード並べ」「英語のアルファベット」2つの授業をしたが、子どもはもちろん大人まで、本当に真剣。その中で赤ちゃんを背負ったお母さんや、腰の曲がったおばあさんたちが、必死で英語を紙に綴る姿は、私の目に焼きつくほどの印象を与えた。彼らの勉強をしたいという気持ちがどれだけ私たちに伝わってきたことか。アエタの人々は勉強を否定しているから学校がないと聞いていたが、そんなことは絶対ない。
みな、本当は勉強がしたくてたまらないんだ。でも生活していく中で、そんな余裕がない。フィリピン内地の先生を雇っても、上から下を見るような教育をするので、それもダメ。もう残りの手段は、私たちが学校を建てるしかない……。このブアグ村に─ わたしはひそかにそう思った。
「黒板があるだけで。そして何よりも共に学びたいと思う教師がいて、学びたいと思う人がいる。」今回の青空教室を通し、私は“学校”というものの原点を見た。
 
《 参考 》

(10)高校生は3年間の活動から何を学んでいるか。
K  3年間の活動での沢山の出会い、ふれあいを通じて、私は“人と接する”ことから様々なことを学んだと思う。仮設住宅でもイキイキと頑張る人、澄んだ瞳を輝かせ、絵を描くアエタの子どもたち、老人ホームでいつも声をかけて下さるお年寄り、一緒に楽しくクラブ活動をした養護学校の友達、懸命に生きようとするモンキーセンターの奇形ざる・・・・
   本当にここにはとても書き切れない。今、振り返って見ると、私は彼らの力になるというより、彼らから沢山の目には見えない大切な物や、自分を見つめる機会を何度も与えてもらった気がする。
L  クラブに入るまで、入った当時は、“ボランティア”とは、人のために何かしてあげることだと思っていました。しかし、活動を重ねるごとに、自分のためにしていると考えるようになりました。なぜなら、それは、ボランティアをしている私が、相手に様々なことを教えてもらえるからです。そして、様々なことを学ぶ度に、自分がちょっとづつ成長していっているような気がしたからです。
   人を見る私の目が変わりました。差別する目がなくなり、差別の目をもつ人が気になり、かわいそうだと思うようになりました。



篠山市同教学校部会研修会 講演記録

講師   近成 俊昭さん
赤松 佳美さん



近成:退職して数年がたち、久しぶりに大勢の先生方の前に立つというので、昨日あたりから緊張し始めました。何十年も教師をやっていて情けないと自分でも思っています。少しトンチンカンなことを言うかもしれませんが、よろしくお願いします。講師が私ひとりで老人の話だけみたいになってもいけないので、インターアクト部の卒業生の中から赤松佳美さんにお話の一部をしてもらうことにしました。これで講師の平均年齢が、若くなると思います。それでも物足らない方には、もう少しするとフィリピンなどに行っている高校3年生が何人か来て平均年齢が20代になるだろうと思いますので、それでご勘弁願いたいと思います。

 今日のお話のねらいは、あとで順番に話していきますが、まずフィリピンに住む少数民族、アエタ族の話から始めます。アエタ族は約三万人いますが、数百年もしくは千年を越すかもしれない強烈な差別を歴史的に受けてきています。この村に4年間入ることができました。このことは、フィリピンの人たちから驚異的な目で見られています。また、フィリピンで活動している青年海外協力隊員、フィリピンのNGO団体の方々からも、驚異的な目で見られています。どうして頑なに外の人たちを拒絶している被差別のアエタ村に、鳳鳴高校の生徒が入ることができたかについて、的確に説明してくれた人はありませんが、今日の講演会を機会に去年から私なりに考えてきました。それで、ある程度の考えをまとめました。心の問題など非常に抽象的な話になってきます。私は話が下手なので、どうしてそういう村へ入れたのか先生方にお考えいただければ非常にうれしいと思います。

 それからもうひとつは、11年前にボランティアサークルを作った当時の目標についての話です。そのころまで学級担任などをしてきて、人権・同和教育ホームルームの時間に教室で行なう教育に私自身が限界を感じておりました。学校を出ていなくても差別をしない人、人権意識の高い人はよくいます。教室で学ばなくても体験を通して、きちんと人権意識を持った人が育つのではないかと、教師が育てるのではなく、生徒自身の力で育っていく、そういう場を提供したいと願って、ボランティアの同好会を作りました。表面的には、地域社会奉仕なのですが、裏側にあったのはそういう願いです。顧問としては、そういうことを絶対生徒に指導しない。生徒自身が自ら活動し、その体験のなかでそういうことに気づいてゆく。資料には、それぞれの生徒が自ら気づいていった例の一部として、感想文を載せています。生徒自らが考え行動しはじめると、すばらしい力を持っていて、私たちが驚くような考えを出してくる。10年余りボランティアサークルを見つめてきて、そういう感じを持っております。資料を配らせてもらいましたので、一番から順番にお話をさせていただきたいと思います。やはり、そう簡単に決意だけで強烈な差別を受けているフィリピンの山奥の村へ生徒が入れたわけではないから、どういう前提で村へ入れるようになったか、クラブでの流れを最初にお話させてもらいたいと思います。

 まず資料の一番目から見てください。「小春の会」スタート。さきほど説明させていただきましたように同好会から始まりました。資料の1ページ目、生徒の感想@を見てください。1行目に「ボランティア活動を通じて多くの人と出会い」とありますが、これはクラブでボランティア活動をした生徒の多くが卒業する段階で、このような感想を述べるのです。「多くの人と出会ってきたことが自分自身の成長のもとになっている」と、この感想文の生徒自身が書いています。現在の生活のなかで携帯電話で友だちと話をするなど、コミュニケーションのかたちはたくさんあるのですが、考えてみると生のかたちでの対話というのは、家族のなかでも少なくなってきているのは先生方もご存知の通りです。だから、老人ホーム、養護学校などいろいろな活動先で、年代の違ういろいろな立場の人びとに出会ってゆくということが、クラブの生徒にとってはすごい財産になっているということです。
 
 二番目に行かせてもらいます。非常に恥ずかしい話をするのですが、同好会を作って何をするかを私と生徒で相談しました。老人ホームもいいということになりました。まだそのころは社会的にボランティアというのは話題になっていないころでした。それで、特別養護老人ホームの特別がどういう意味を持っているのか、私はまったく知りませんでした。当時、西紀町にある和寿園へ生徒といっしょに行きました。「ここは老人ホームやな。入っていいか聞いてみよう」と、左と右に二つある玄関の右側に何の気なしに入りました。あとでわかったのですが、そこが特別養護でした。左側の玄関は普通の老人ホームでした。特別養護へ入ったということも、私たちは知りませんでした。そこで園長に出会って、「お年より相手に歌を歌ったり、リクレーションの相手をさせてほしい」と気楽にお願いしたのです。すると園長さんが、「そんなんいらん。介護をしてくれ」と言ったのです。今でこそ、介護という言葉はよく使われるようになっていますが、私たちは驚きました。「介護って何や? 何ができるんや?」と思いました。後から分かったのですが、私たちは試されていたのです。それで学校へもどって相談しました。しかし、介護と言われても何をすればいいかわかりませんでした。老人ホームの職員のまねをしても十分の一の仕事もできないかもしれない。そこで話し合って、クラブの合言葉は「ハートで勝負!」にしました。「心だけはつくそう。仕事はできなくても心だけはつくそう」をクラブのモットーにして、老人ホームで介護活動を始めました。いろいろな注意を受けながら介護活動に携わりました。私自身そんな活動のなかで、「これは重度の障害者にかかわっているのだ」という当たり前のことに気がつきました。

 かかわり方の基本を三つほど、そこにあげています。

 まず、「同じ目線で」ということです。これは今日のお話の最後までつながっていく事柄のひとつになると思います。ほかの注意事項もありますが、これが常に生徒と申し合わせていることです。同じ目線でということは、ベッドで寝ておられるお年寄りにしゃがんで話しかけるという物理的な意味の同じ目線だけではなく、心のなかでの同じ目線で接していこうということです。これが、「ハートで勝負!」というクラブのモットーの言葉につながり、「それで行こう」となりました。

 一年ほど暮れたとき、園長さんが突然私に言われました。「実は、生徒さんの様子を見ていました。先生のことも見ていました」と聞いて驚きました。かたちだけのボランティアをするのだったら、ある段階でお断りしようと思っていた。でも、鳳鳴高校の生徒さんを見ていたら、たとえば単位を取るなどという目的で来ているのではないとわかった。その時点で、「これからは、学生ボランティアは鳳鳴高校だけにします」と言ってくださいました。これは私たち経験の浅い者にとっては非常にありがたい言葉だったと思います。鳳鳴高校インターアクト部は和寿園・特別養護老人ホームとのかかわりが非常に強く、そのなかでクラブは育てられてきたと考えております。

 そのページの真ん中に生徒の感想Aを載せています。このなかで注意していただきたいのは、「笑顔で話しかける」です。2行目のあとのほうに「心と笑顔」という言葉が出てきます。「今からだれかに出会ったら笑顔を作りましょう」と言えば、笑顔を作ることができます。私たちはこれを「作る笑顔」と考えています。国境や民族を超えられる本当の笑顔は意識だけでは作れないということを今日のお話のなかからくみ取ってほしいと思います。どういうふうに生徒は世界に通じる本当の笑顔を作っていけたのか。それが、ひとつの課題になると思っています。

 お年よりと接していくなかで、「心と心の交流」がありますが、これは目に見えないものです。だから、本当にそういうのはありえるのかと私自身疑問に思ってきました。活動を始めて一年ほどしたとき、和寿園の園長さんが鳳鳴高校の校長にわざわざ会いに見えました。お話を聞いて、私自身も驚きました。特養で、あるおばあさんが高齢で亡くなられました。身寄りがなく、ホームの職員がほんのわずかの遺留品を整理していました。風呂敷包みの中には、わずかな下着類のほか何もなかったのですが、その下着類の一番下から本当に粗末な白い小さい紙に包んだ物が出てきた。開けてみると、一枚の年賀状だった。

 そのころ、特養の50人には必ず年賀状を書くということを決めていました。園長さんのお話は、「そのおばあさんが一番大切にしていたのは、高校生が書いてくれた一枚の年賀状でした。見たとたんに、すごく大事にしていたことがよくわかりました。高校生は老人ホームのお年よりの心の中に入り込んでいるということが、これでわかりました。その点では、老人ホームの職員のほうが忙しさにかまけて、なおざりにしているのかもしれない。心で接するという点では、鳳鳴高校の生徒を見習おうという訓示を朝礼などでしている」ということでした。
 
 つぎにBの生徒の感想です。「何かをいただいている」と書く生徒がよくいますが、この生徒の場合、「心の中に暖かい色をした何かをいただいた気持ちがします」とあります。心と心のキャッチボールができていると言えるのではないかと思います。どうして心と心の交流ができるのか?老人ホームの場合、お年寄りからすれば、物で生徒にお礼をすることは一切できません。物がないということになれば、あとは心しかない。生徒のほうも介護テクニックを持っているわけではないし、物を持ち込むわけでもない。だから、心でつくすしかない。現在の生活を見つめた場合、お互いに心と心を見つめあう場は学校教育の中でも、家庭においても少ない。だから、そういう体験をすることが生徒にとっては非常に新鮮な体験となり、自分の心が育ってゆくのでないか。そういうことを考えてきました。
 
 つぎに三番目の項目に移りますが、篠山養護学校との交流が始まりました。養護学校との初めての出会いは運動会でした。「手伝ってほしい」という依頼が、養護学校からインターアクト部のところへ来ました。資料に書いていますが、そのときに養護学校の先生から、「出会った瞬間に手がつなげるかどうか。養護学校の生徒は勉強はできないけれども、障害を持っているけれども、瞬間的に相手を判断できる。これを健常な人は知らない」という注意を生徒も私も受けました。これには、私も生徒も困ってしまいました。出会った瞬間に勝負は決まるのです。形のうえで手をつなぐことはできても、心と心がつながる手をつなぐことはできない。「自分たちは老人ホームで高度の障害を持つ人にかかわっている。そういう体験に自信を持って子どもたちにも接していけるのやないか」と、私は当時の生徒に言いました。

 手前味噌になりますが、初めての出会いはものすごくスムーズにいきました。本当に両方から自然に手を出し合って、サッと手をつないで運動会のプログラムが進められました。高校生もパーフェクトではなく、養護学校の先生方にいろいろ迷惑をかけていると思いますが、それが縁になって現在まで運動会があると手伝いを続けています。さらに発展して、現在は放課後ボランティアで毎週1回養護学校へクラブ生徒が交替で行っております。これに関して、生徒の感想CとDを載せておきました。Cを読みます。「運動会を手伝って、もっと私たちが養護学校について知るべきだし、もっと交流すべきだと思いました。養護学校のみなさんは、精一杯心を開いてくれているのに私たちが閉鎖的になっているから、距離はまったく縮まらないのではないかと思いました。私たちは同じということを忘れているのではないでしょうか?」私があれこれ教えるわけではありませんが、生徒は養護学校の先生や生徒とのいろいろな活動のなかで、養護学校の先生方のすごさも見抜いているし、いろいろなことを学んでいます。

 2ページへ続いていますが、Dの感想文の最後を見てください。「一生懸命がんばっている姿を見ていると、すごく励まされ感動しました」とあります。いろいろなことを手伝いながら、高校生は見つめ、自分なりに考え、学んでいるのです。あるとき、ひとりの女子生徒が「私は将来、養護学校の先生になる。この体験でそう決心した」と、活動しているその場で言ってくれたことがあります。私は半分、「ううん、そういうこともありえるかな」という気持ちで聞いていたのですが、本当に去年の4月に篠山養護学校に赴任してきたので驚きました。高校時代の体験からの決意は、場合によってはその人に人生を左右するのです。もう今では、インターアクトの卒業生は200人近くになっています。かなりの卒業生が人生を非常によく考えて、現在歩んでいると私は思います。保護者の方々から、そういうお話を聞くこともよくあります。
 
 つぎに、(4)兵庫県南部大震災救援活動へ行きます。これは、先生がたのご記憶にある通りです。当時、私自身追いつめられました。かりそめにも、ボランティア部を名のっている。緊急事態が起きた。被災地から遠くの高校のボランティア部で、動けるのか、動けないのか? クラブの生徒は私のところへ来て、「鳳鳴高校のクラブが動かないんやったら、ボクは民間のグループに入って神戸へ行く」と言いました。それで、「ちょっと待ってくれ」と止めたのです。しかし、高校生に何ができるか見当もつきませんでした。そのとき、「それまでの自分たちの活動は平和なときの活動であり、緊急事態が起きたときに対応できる力があるのだろうか。」個人的には、「高校生として、もし何も活動できなかったらクラブはつぶれるだろうし、つぶしてもよい」と私は思いました。

 震災直後から、神戸市内の小学校や中学校の体育館に避難している寝たきりのお年よりで、暖房もないのでそのままでは病状が悪化しそうな人を和寿園は自発的に数十人受け入れました。昼間はものすごい交通渋滞でしたので、夜中に救急車に乗せて運ぶわけです。そのうちのひとりのお話をこのページの真ん中あたりに紹介しています。Aさん、避難所より和寿園に緊急転送、「夜中に救急車で山奥へ、捨てられると思った。」これは、本気で私にそう言われました。着いた所が予想もつかない真っ暗闇の中で、丹波篠山だとわかった。そういう方が、20人、30人と和寿園に収容されてきました。交通事情が非常に悪かったので、家族の人はほとんど来られませんでした。
 
 一週間たつかたたないうちに園長さんが来られ、「和寿園としては緊急事態で職員は増やせない。せめて土曜日曜だけでいいから、インターアクト部に手伝ってほしい。ボランティアは鳳鳴高校だけに頼みます」と言われました。やはり人が相手ですので、人手が足りないからだれでもよい、というわけにはいかないということでしょう。その特別救援活動は3年続けました。

 生徒は土曜日曜に順番制でもくもくと和寿園へ行き、介護活動に従事しました。しかし、クラブの生徒たちには、「被災地へ行って活動したい」という強い願いもありました。無理をしないで和寿園で活動するのが自分たちにとっての救援活動であるけれど、一人ひとりのお年寄りがどういう追いつめられた気持ちでいるのかは、被災地に行かないとテレビの画面だけではわからないということでグループを作って、神戸や芦屋などへ行って救援活動にも従事しました。一日だけ行ってもたいした仕事はできません。被災地の空気を吸ってきて、それをもとに和寿園に収容されているお年寄りの心に寄り添っていこうという申し合わせをして、被災地へ出かけました。避難所の炊き出しの手伝いもしました。

 最初は、「田舎の高校生に何ができるんや」というような感じで、たいていの所は愛想が悪かったです。しかし帰るときは、「また来てくれるか?」と言われました。これはあとでアメリカのところでも触れますが、一日の終わりにボランティア活動を本気でよくやってくれたと思ったとき相手の人は、「よくがんばってくれました」という言葉はひとつも出てきません。「また来てくれますか?」、これが最大のほめ言葉なのです。アメリカでも、そういう体験をしました。被災地でいろいろな避難所へ行きましたが、終わる時に、「また来てくれますか?」とよく言ってもらいました。いつも「ハートで勝負!」という言葉をモットーにして、やってきました。
 
 その年の5月から仮設住宅が建設され、仮設住宅への入居が始まりました。私と生徒はその段階から仮設住宅を訪ねました。元気な人は相手にしないで、「お年寄りで、障害を持っていて、独り暮らしで、外へ出られない人はいませんか」と生徒と歩き回りました。仮設住宅が始まったころは自治会もできていませんでしたから、混乱状態でしたが、尋ねまわって、こちらにひとり、あちらにひとりと見つけ出しました。私たちは物を持っていないし、できることはハートで勝負だけでした。物を持たずに訪問して、話し相手をするだけに3年間徹しました。そうするときに和寿園で経験を積んでいるから、お年寄りに接する方法は身についているだろうという勝手な発想で、それだけをよりどころにして、仮設住宅の独り暮らしの老人訪問を続けました。

 その中で、いろいろな経験をしたのですが、2ページ真ん中あたりに3人の例を挙げておきました。ご年配のAさん夫婦は、神戸市内でお茶屋さんをしていたのですが、店も全壊して仮設住宅へ避難していました。周りの方とまったくの没交渉で、周りの人が声をかけても、「ほっといてくれ」というありさまでした。不思議なことに、鳳鳴高校の生徒だけは訪ねていって、ドアをノックすると、「入ってくれ、入ってくれ」と中へ入れてもらい、おいしいお茶をよばれて、話し相手をする。「入れるのは、あんた方だけやから何とかサポートを続けてほしい」と周囲の方々からも言われました。サポートにも当たらないのですが、接触を続けました。この方たちは途中で病院へ入院しました。こちらもしつこく病院まで追いかけました。同じ病室の人に「この人には見舞い客がまったくないので、あんた方が来てくれたらうれしいから、また来てあげてね」と言われたこともあります。

 つぎのBさんですが、この人も閉じこもりで、病気で、ほとんど寝たきりで、周りの人と没交渉でした。このころには自治会もできていて、自治会役員も声かけをしていて、そこに高校生も加わってかかわりました。この方はだんだん元気になってきて外に出られるようになり、本当にみんな喜んでいましたが、生徒が「また来ます」と別れたあくる日の早朝に亡くなられました。「昨日、高校の生徒さんが来ておられましたけど、亡くなりました。来てもらっていたから、まず先生のところへ連絡します」と朝、電話が入りました。少しでもかかわった人が亡くなる、人の死に直面することでショックを受けました。死という問題を高校生が考えていくひとつのきっかけになると考えてきました。
 
 Cさんは男の方で、この方も閉じこもっていたのですが、訪問を繰り返すなかで変化が見られました。男の人やし、部屋の中は汚いし、むちゃくちゃでした。「部屋を掃除し始めた。高校生が来るときは、朝の5時から起きて掃除をしている」と自治会の役員さんが言われました。そして、服装がさっぱりし始めました。生徒は女の子が行っていたのですが、「年が行っても、女の人が来ると言うたら、やっぱりしゃんとせなと思うんやな」と自治会の会長さんが笑われました。この方は見事に立ち直っていきました。本当に何も持って行かないで話し相手をするだけなのです。そういう活動を3年間続けるなかで仮設住宅は閉鎖されましたので、ある段階でこの救援活動は終わりにしました。これ以外にもいろいろな活動をしましたが時間の関係がありますので、その話は今日はやめておきます。

 高校生がボランティア活動をすると言っても深くできるわけではないし、入門編と考えています。この地域で老人ホーム、養護学校、仮設住宅で活動してきて、何か身につけているはずである。もし身につけているのであれば、外国へ行って通用するのかどうか。通用しないのであれば、私たちが身につけていると思っているものは、仮に思っているだけということになります。それで、ボランティアの先進国でボランティア活動をすることで、自分たちの視野を広めようということでアメリカへ3回行きました。

 そのことを(5)に書いています。活動したのは、日本とよく似ている老人ホームのほか、最初にフードバンクと書いていますが、日本ではちょっと想像できない規模でボランティアが食料をたくさん集め、恵まれない人たちや障害者で生活に困っている人たちなどへの配給、またホームレスの夜のフードサービスなどです。夜のフードサービスは昼間でも行ってはいけない地域に女子生徒ばかり連れて、ホテルを夜8時に出発し片道30分近く歩いて行きました。ホテルに帰って来たら11時で、もう一人の顧問の先生と「教師としては命をかけたな」と言いました。夜中の公園で、こういう机を3つ並べて教会で作ってきた温かい食料を並べたお皿に順に入れていくのです。スープ、サラダ、パンなどをのせていきます。200人くらいのホームレスが集まっていました。この机より向こうには絶対に行ってはいけないとお世話してくださったボランティアの人に最初に注意を受けました。少し離れた陰には、パトカーが緊急事態に備えて止まっていました。ボランティアの人たちも心配してくださるし、200人のホームレスからも、「今晩は見かけないアジアの顔が並んでいる」という目で見られたので、最初はものすごい緊張感がありました。しかし、終わったあと、そのあたりは和やかな雰囲気になりました。高校生は片言の英語でホームレスの人たちと、結構いろいろな話をしました。

 そんななかで、英語はできなくても、言葉の壁を越えてボランティア活動をしていけると思いました。これは、クラブにとってとても大きな収穫になったと思います。いろいろな所で活動しましたが、私が感心したのは、要領さえわかれば高校生たちはパッと溶け込んで向こうのスタッフの人と同じ作業をしてゆくことです。全然違和感がない。風景に溶け込んでいるという表現を私はしてきました。終わったら、どの場所でも必ず、「また来てくれますか?」「あした来てくれますか?」「来週は?」と聞かれました。「私たちはもう日本へ帰るから」と断ってきましたが、そういう言葉をいただきました。そして2度目にいった時に、行くと予告をしていたのですが、あるところでは、わざわざ日本風の弁当がお昼に用意されていた場所もありました。塩鮭を焼いたのが、ごはんの弁当に乗っているのをアメリカで見てびっくり仰天しました。アメリカへボランティア活動に行って、日本食のお弁当を用意してもらった。たぶんその前に行った時に好感を持ってもらえたから、そういうもてなしをしてもらえたのだと思います。
 
 「ハートで勝負!」というのは、アメリカでも通用するのです。言葉は確かに大切なものではあるけれど、それを越えてボランティア活動で向こうの人と連帯していける。資料にありますが、ある場所ではロシア人、韓国人、ポーランド人がいて、みんな英語が話せませんでした。それぞれ勝手に自国語を話している。それで意思の疎通ができ共同作業がしていける。そういうことをアメリカで学びました。こういう体験があったから、周囲には無理と心配されていたけれど、フィリピンでのボランティア活動がうまくいったのではないかと考えています。

 それでは、どういう活動をしたのか、最初の年から何回にもわたって現地で活動してもらった赤松佳美さんにしばらく交替します。

赤松:こんにちは。近成先生からご紹介にあずかりました篠山鳳鳴高校インターアクト部OGの赤松佳美といいます。大勢の先生方がいらっしゃるので大変緊張するのですが、まず、私のフィリピンでの体験を通して少しお話させていただきたいと思います。
 
 さきほど先生からお話があったように、1999年から篠山鳳鳴高校インターアクト部のフィリピンでの活動が始まりました。今大学の3回生ですが、当初から4年にわたり「丹波グリーン・フォース」という団体を近成先生といっしょに設立しまして、今もフィリピンの活動に携わらせていただいております。はじめにインターアクト部とアエタ族の交流のきっかけになったことから、お話させていただきたいと思います。最初、フィリピンのアエタ族の緑化運動に携わっている山南町のIKGSというNPOの協力をさせていただいていて、篠山川などの葛の種を集め、IKGSを通してフィリピンの方に送っていました。
 
 1999年にアエタ族の代表の方が日本にこられた時に、篠山鳳鳴高校も葛の採集に協力してもらっているということで、高校で交流会を持つことになりました。アエタ族の代表の方は、日本来られているあいだ10ヵ所以上いろいろな小学校や施設を回ってこられました。最終日に鳳鳴高校に来ていただきました。そのときの交流会で私たちクラブの生徒が、アエタ族の人にこういう質問をしました。「アエタ族の人は、どうやって爪を切るのですか?」「耳掃除は、どうしてされるのですか?」交流会というと表面的になってしまいがちですが、突拍子もないことを私の友だちが聞いたのです。意外にもアエタ族の人は、その質問を喜ばれて、身振り手振りを加えながら答えてくださいました。ほかにもいろいろな質問が出て交流会は和やかに進みました。次の交流会の時に、後輩の生徒たちが3人立ち上がって、「この中のだれが、アエタ族では一番の美人ですか?」という質問をしました。交流会の最後に「今日はみなさん私たちの生活についての質問をたくさんしてくださいました。今度は私たちの村へぜひ来てください。そうすれば、質問の答えが見つかるでしょう」と言われました。日本で、アエタ族の人に「私たちの村へ来てください」とお誘いを受けたのは、鳳鳴高校だけと聞きました。これがきっかけで、わたしたちの高校とアエタ族の交流が始まりました。
 
 私は、1999年の最初の訪問時にクラブの希望者として、アエタ族の村へ行かせていただくことになりました。お手元の資料の3ページ、ピナトゥボ火山被災地訪問ということで、目的が三つありました。

 一つ目は、IKGSの手伝いをしている緑化運動を実際にアエタ族といっしょにし、日本から送られている葛が現地でどのように役立っているかを見に行くことでした。

 二つ目は、少数民族のアエタ族に教育の大切さを伝えるという、とても大きなテーマが課せられました。

 三つ目は、差別されて態度を閉ざしている村の人々と交流をすることでした。

 この三つの目標を掲げて、現地を訪問することになりました。私たちが最初にフィリピンを訪れた時に使っていたアイテムを回しています。最初はクラブの生徒3人で、電気も水道もガスもない村ということで緊張しながらも、期待も持って訪問しました。村に到着して、「さあ、アエタ族の人と交流しよう」と思っていたら、村の人がだれもいないのです。「日本からやってきたのにだれもいないぞ」と思って家を回りました。私たちを待ってくれているはずの、私たちと同年代の少女で1日生活の手伝いをしてくれるパートナーも部屋から出てこようとしませんでした。アエタ族は歴史的にフィリピン社会の中で最低辺に置かれ、差別を受けてきたと日本にいるときに聞いていました。シャイな民族であるとも聞いていたのですが、予想以上の展開にとまどいました。

 ここは、インターアクト部で培った力の見せどころだと思い、私たちから行動しようと子どもたちに近づいて遊ぶことにしました。今そちらに回しているのは、アエタ・サンバル語と日本語を書いたプラカードです。それを使って最低限の挨拶や自己紹介などを身振り、手振りを加えながら必死で交流の機会を持とうとしました。警戒していたアエタ族の人々も、だんだん子どもたちから近づいて来てくれるようになりました。心配していたパートナーとも身振り手振りではありましたが何とか交流し、15分ほどで手をつないで村に散歩に出たりするような関係を築くことができるようになりました。その日は1日終わって、あとは緑化活動などをしました。

 目的のひとつである、教育を拒絶しているアエタ族に教育の大切さを教えるということについて、フィリピンに行く前に何をしようかと考えました。生徒である私たちに何ができるのだろうかと考え、まず勉強することや学校に来ることは楽しいということから始めようと出発前に計画を立てました。文字はまったくわからないということなので、絵の具を使って子どもたちといっしょに絵を描こうと思いました。それを現地のNGOの人たちに伝えたところ、「アエタ族は絵の具を見たこともなければ、絵を描く概念すらないから、無理であろう」と言われました。私たちは、「無理かもしれませんが、やらせてください」と、日本から最低限の絵の具、筆、紙を持って現地に行きました。「1日先生」と銘うって、その活動を始めたのですが、学校に着くと集まっているはずの子どもたちがいません。村長さんが村の家を回って子どもを集めてくださいました。もう廃校になっていたのですが、ヨーロッパの援助団体が建てた校舎を使わせてもらって、お絵かき教室をすることになりました。子どもたちは集まってくれたのですが、すごく警戒し、すごく緊張した雰囲気が蔓延していました。私たちも今まで先生に教えられる立場にあったのに、急に言葉も伝わらない所で先生をやろうというので緊張していました。

 言葉も通じない子どもたちにどうやって教えるかを出発前に考えました。まず、仲良くなるためにマジックを見せようと、マジックのボランティアをしている人に教えていただき、いくつかのマジックを覚えてフィリピンに行きました。そのマジックをそこで見せて、少し子どもたちが私たちに興味を持ってくれたので壁が低くなり、距離が縮まった気がしました。

 最初授業を始めたときは、日本語で「これは筆で、絵の具と水を混ぜて描きます」と言って、日本人の現地スタッフの方がフィリピンの公用語のタガログ語に訳し、さらにフィリピン人のスタッフの方がアエタ・サンバル語に訳すという二重翻訳を入れていました。そういうふうに授業を進めようと思ったのですが、私たちもカードを使って覚えた最低限のアエタ語を使ってやっていたのですが、子どもたちの緊張も解けないし、もどかしさも感じました。そのとき頭の中をよぎったのが、先生もおっしゃったクラブのモットーである「同じ目線で」ということでした。

 こんなに広くない校舎なのですが、前に立って二重通訳を介して子どもたちに説明することをやめて、子どもたちの中に入っていきました。床で描いている子どもたちに目線を合わせ手を取って、使い方を説明していきました。子どもたちは本当に絵の具というものもわからないし、筆も「この棒は何なのだろう?」というところからのスタートでしたので、こちらは本当に真剣勝負でした。チューブのキャップを「こういうふうに開けるんだよ」とか「絵の具はこうやって出して、筆に水をつけてから描くんだよ」とかいうことを全部手を取って伝えました。少し先生方の気持ちがわかったような気がしたのですが、なかなか笑顔を見せてくれない子ども、警戒心があって筆は持っても、そのままずっと止まってしまう子どもがいて、とにかく必死で「同じ目線で」「心で勝負」ということだけで交流を続けました。日本の小学生の絵も持って行っていたのですが、絵を描くことも知らない子どもたちでしたから、その絵を見て写して描いたり、点や線を描いたりしました。だんだん外にある木を描いてみたり、果物を描いてみたりするようになりました。

 最初はとまどっていた子どもたちでしたが、だんだん笑顔になり、「紙ちょうだい」と取りに来たり、絵の具を友だちの顔につけたりということもし始めました。もうひとりの子が感想文にこう書いていました。「私は日本語で『絵の具はこうやって使って、最後は蓋を閉めるんだよ』と言ったら、子どもが『うん』とうなづいた。私たちは言葉は通じないけれど、子どもたちといっしょに絵を描きたいということを伝えようとした。子どもたちも、それをどうにかわかろうという気持ちがあったから、通じたのではないか。」最後に、日本の小学校やいろんな方々に協力してもらい集めて持っていった鉛筆とノートをプレゼントして、「1日先生」は終えることができました。帰り道にプレゼントした鉛筆とノートで子どもたちが絵を描いている姿を見て大変うれしく思いました。

 「1日先生」を見に来てくださったあるお母さんが、『あの先生たちは子どもたちを上から見下ろして教えない。ああいう先生だったら、子どもたちを学校へ行かせたのに』と言っていた」ということを日本人のNGOのスタッフから、日本に帰ってきてから私たちは聞きました。出発前にアエタ族は差別を受けてきた民族だということを少しは聞いていたのですが、その母親の言葉の意味が最初はよくわかりませんでした。その背景には、こういうことがありました。ヨーロッパの援助団体の建てた立派な校舎に、アエタ族ではない町のフィリピン人の先生を連れて来る。その先生はアエタ族に対し、「こんなことも、わからないのか」という上から見下ろした態度で教えた。それで村の人たちは教育を拒絶するようになったという背景があるということです。私たちも、あらためてアエタ族の置かれている立場を知ることになり、また教育の大切さも実感することができました。

 このように始まった活動ですが、そのあとも春に高校生、夏に卒業生の大学生グループというかたちで4年間訪問を続けてきました。最初私たちが入った時は、家の扉を閉じてしまったような村でしたが、高校生が行くたびにだんだん笑顔を見せてくれるようになり、三度目に行った時は向こうから手を振って迎えに来てくれるようになりました。いっしょに植林をし、教育の大切さということを捉えて高校生が毎年「青空教室」を引き継いでやってくれています。子どもや大人に対して絵を描くことから、1年ずつだんだん識字につなげていくとかたちで青空教室を続けています。私は毎年一回行かせていただいていますが、アエタ族と私たちの関係がだんだん深まっていくのをとても感じました。三回目の訪問の時に、「この木なんの木」のCMに出てくるような村一番の大きな木の下で高校生が開く文字通りの青空教室のために、古着を集めて売ったお金で購入された黒板を持っていきました。最初は子ども相手だったのですが、大人もだんだん参加するようになりました。

 2001年にこの活動に興味を持ってくれた大学の友だちと私はアエタ族の村へ入った時、教育に対する意識が高まっていると聞き、村の人の意見を一度聞いてみようと一軒一軒回りました。「教育について、どういうふうに感じているか?」「どういうものが今この村に必要か?」についてのアンケート調査をしました。そして、村の人に集まってもらい会議を開いてもらいました。人前で意見を言ったりすることがアエタ族の人には、なかなかないのですが、そのときある青年が「私たちは、できれば勉強したんだ」と言われました。「生きていくのに必要なのは、まず大人が勉強することだ」ということが、その会議で決まりました。「子どもの教育も大事だけれど、生活のために大人が勉強したいのだ」と初めてアエタ族の方が言われました。そういう意見を聞いた2002年春の活動の時に、高校生、大学生と村の人がいっしょになって村の学校建設をすることになりました。教育を拒絶していた村の人たちが、自分たちが生きていくために勉強したいということの意味を最初私たちもわかっているようで、わかっていなかったのです。その背景には、せっかく村でとれた野菜を町に売りに行っても計算がわからないから、町の人におつりをだまされたり、ひどい話になると毛布一枚と土地ひとつを交換させられたりするような状況もあると聞きました。
 
 子どものための教育をと思っていたのですが、大人のための教育にも目を向けていこうと、2002年の夏に大学生グループで現地を訪れた時に、村の人たちと高校生がいっしょになって建てた校舎で本格的な大人の識字教育を現地のNGOの識字専門家の方といっしょにしました。最初は本当に集まるかどうか心配していたのですが、60歳70歳になるおじいさんや赤ちゃんを連れたお母さん、もちろん子どもたちもいっしょに集まって来て、識字教室を開くことができるようになりました。午前中に行なわれたのですが、その午前中というのは、狩をしたり、農作物の収穫をしたりする、アエタ族にとってはとても大切な時間でした。生きていくための大切な時間に来てくれるということで給食も用意したのですが、識字教室に来てくれる大きさを知りました。

 一週間のプロジェクトでしたが最後の授業の時に、これからもこの教室を続けていくのかどうかは、村の人の意志に任せようということで質問しました。すると全員の手が挙がりました。教育を拒絶していたアエタ族の人にとっては驚くべきことでしたが、村長さんが最後の挨拶で、「私たちは、この一週間を通してお互いに学んだと思います。私たちの子どもが大きくなってからも、この識字教室は続けていきたい。長い間、アエタ族は町に出ても人間として扱われてこなかった」と言われました。私たちが入っていた村はブアグ村というのですが、その名前の由来をそのとき教えてもらいました。英語のブラインド、タガログ語でブアグですが、目の見えない人々、盲目の人々という少し差別的な意味の入った言葉から来ています。目の見えない人々が住んでいる所ということで、アエタ族の一番奥の村にブアグ村という名を町の人がつけたということです。「私たちは明日の生活さえわからない生活をしているけれど、文字の読み書きができることによって希望の光がひとつ見えてきました」と言われました。

 フィリピンのスタッフの人に、「アエタ族は町に行っても、病院に行っても、いつでも端っこの方に縮こまって待っていたり、物乞いをしたりという立場に置かれていて、石を投げられてもそのまま何も言えず、逃げてゆくような差別を受けている」と聞きました。私たちの活動は、アエタ族に教育の大切さを伝えるきっかけになったかもしれません。しかし、自分たちの生活に精一杯で逃避した生活をし、「自分たちはこれでいいんだ。見下げられていいんだ」と思っていたアエタ族が、こうした活動を通じて、「自分たちが立ち上がり、自分たちが読み書きできたら、町の人に差別されている状況を少しでもよくできるのではないか。自分たちのより遠い未来が見えてくるのではないか」と自分で気づいたことは、非常に大切なことだと思います。文字の読み書きができたら、生活がよくなると見えてきたわけですが、少数民族として選挙権も保障されているのですから、選挙にも参加できるようになります。一切の社会保障もなく、公立の学校はもちろんなく、医療や住民登録もない中で、アエタ族が選挙に参加できるようになることは、本当に未来が開かれていくことにつながると思います。この活動に高校生の時から携わってきて、どういうふうにつながるのか漠然とした思いはあったのですが、去年の夏にそういうことがあり、「このためにやってきたんだな」とあらためて感じることができました。インターアクト部のこういう活動が、フィリピン社会の中でも一般の低地の人々とアエタ族との風穴になることを目標として、今後も高校生と地域の人々と連携して活動を続けたいと思っています。以上です。

近成:ここで、まとめに入りたいと思います。正直言って、どのようにまとめるか数日悩んできました。強烈な差別の受けている村にどうして入っていけたのかということは、現地のNGOの方々からも関心を持っていただいております。ここにいる赤松さんや、あとから来ました高校生もそうですが、村のパートナーと呼ばれる同世代の少女たちといっしょに生活しました。たとえば喉が渇けばペットボトルを回し飲みする、また地面にバナナの葉っぱを置いて、その上にごはんなどを並べて手づかみでいっしょに食べる。日本で言えば、物置にも該当しない本当に粗末な宿舎で、夜は隣り合わせで体をくっつけるようにして寝泊りする。これは一般のフィリピン人からすれば、想像を超えることなのです。だから、アエタ族の少女たちには、外見的にただペットボトルの水を分け合うということだけでなく、気持ちのうえで、同じ目線で接してきてくれているということがわかると思うのです。私も生徒も村の人たちに「教育は大切ですよ」とは、一言も伝えておりません。ただ結果として、アエタ族の子どもたちが学校へ行き始めました。それから、日本で言えば中学と高校の組み合わせのようなものですが、ハイスクールへも行き始めました。これは関係者から見れば、驚異的なことだと言われています。

 だいたい女の子は13、4歳で結婚してゆく。勉強しても差別を受ける社会では、何の仕事も得られないという絶望感の中で暮らしてきたので、教育を拒絶してきた。しかし、体験の中で私たちには、村の人たちは本当は教育を願っているということがわかってきたのです。それで、識字教室を始めました。そして、赤松さんが最後に言った、「自分たちに選挙権がある」ということに村人自身が気づいていったのです。私は、すごいことだと思います。アエタの人みんなが識字教室に参加でき、選挙の時に自分の名前と投票したい人の名前、何か忘れましたがもうひとつ書けば、投票できるのです。アエタの人で選挙に行った人は、これまでひとりもいません。甘いかもしれませんが、それによって行政が道や学校を作ってくれるかもしれない。そういう望みが出てきたのです。3万人のすべてのアエタ族に識字教育ができるのか? これは、私たち高校生や卒業生のレベルでは、もう話にはならないです。私たちは活動資金を何も持っていません。しかし、そういう兆しが少し見えてきたので、向こうからはとにかく継続的に来てほしいと言われています。かっこよく言えば、アエタ族と彼らを拒絶しているフィリピン人との間に入って、日本人が橋渡しをしていけるのかもしれない。そういうふうに考えられるようになっています。

 差別の壁をどうしてクリアしていったかを突き詰めて考えてみると、老人ホームで学んだ「同じ目線で」、ひとつはこれに徹すると思います。それから、「心と心の交流」です。アエタ族の人たちが日本の高校生に感謝しようと思っても、お礼にできる物が一切ありません。私たちも可能なかぎり、物を村へ持ち込むなと指示を受けています。物で相手を買うのではない。そうなると、残されたものは心と心しかない。日本で暮らしていると、誕生日でもお正月でもプレゼントというものがついて回ります。誕生日に来てくださった方が、お祝いの言葉だけを述べて帰られるというのは普通考えられない。極端に言えば、日本の子どもたちは物を介在して人とつながっているのだと思います。フィリピンを訪ねる高校生や大学生は物のない所ではじめて、「どうしたら相手の人と交流が進められるのか。これは心しかない。その心は決意だけでできるものではなく、温かい心を持っていたら、相手もそれを見抜いてくれるのではないか。それで相手も信頼してくれて、少しずつ交流が進められるのではないか」と考えたのです。さいわいにして村の村長さんは少なくとも今、鳳鳴高校の生徒と卒業生に対しては、村の扉を開くと言っていただいています。その温かい心というのは、老人ホームやいろいろの活動の中で培われてゆくと思います。生徒自身が温かい心からの笑顔を作れるようになっているなどと自覚することはありません。

 少し離れますが、去年の暮れに初めて神戸センター街で募金活動をしました。そのことに触れたいと思いますので、3年生の生徒に感想文の一部を発表してもらいます。


篠山鳳鳴高校インターアクト部、福西綾子と申します。

『神戸で募金活動をして』
 まず初めに篠山市以外の募金活動は初めてで、篠山市では鳳鳴高校のことやインターアクト部について知っている人も多いので、あまり不安にいたるまで考えたことはなかったのですが、はたして一見どこの誰だかわからない私たちの募金活動に神戸の人たちが協力してくださるのかとても不安で、何回か経験のある募金活動自体をどんなふうに始めていこうかととまどうくらいでした。そして、実際始めたころは、あまりいい状況とは言えず、「ああ、やっぱり。どこででも、篠山のようにはならないんだ」と内心思っていました。しかし違いました。私の気持ちが入りきれていなかったのだとわかりました。それは通りがかったトラックの運転手さんの一言、「声がよう聞こえてきたから入れたるわ」と閉めていた窓を開けて入れてくださった言葉で、ハッと気づきました。やっぱり、どこだって同じです。「もうだめだ。頭に血が上る」ってくらい大きな声で私たちのやる気と熱意を伝えるのです。そうすれば、きっと伝わります。私たちは身を持って体験しました。そのあとからは、本当にたくさんの方々に伝えることができたと思います。とても疲れたので「楽しかった」とは一言で言えなかったけれど、たくさんの人に出会うことができ協力してくださった方も、残念ながら協力してくださらなかった方にも、私たちの活動を少しでも知ってもらうことができたことは本当によかったし、またさらに仲間との結束が深まった充実いっぱいの一日でした。神戸の町は寒かったけれど、人々の心は温かかったです。何だか感動して涙が出そうにもなりました。インターアクトで活動していると、なぜこんなに心が温かくなるんでしょう。
ありがとうございました。

近成:去年は教育関係ではなく、メディカルケアという現地にある無料診療所のボランティアの手伝いをしました。去年初めて篠山に住んでおられる年配のマッサージ師さんに研修を受けました。目の見えないマッサージ師さんに高校生が研修を受けられるか非常に心配をしましたが、何回か研修を受けて真似事ができるようになりました。その方は「これまで自分は障害者として人の世話になるばかりだったけれど、初めて人の役に立つことができた。高校生が自分の代わりにフィリピンへ行って、恵まれない、病院へいけない人にマッサージをする。それで間接的に国際協力に参加できる」と非常に喜ばれました。明日も、次に行く高校生の研修をする予定です。「マッサージで手を添える、その人の体に触れる時に、心を手に込める」とその方は、おっしゃいました。高校生はプロではないので現地できちんとしたマッサージができるわけではありませんが、心を込めて患者さんの身体に手を触れるだけで、ものすごい人気が出ており「次はいつ来てくれるのか?」と待たれています。マッサージでは何も物を持ち込みませんし、向こうの病院へ行けない貧しい患者さんに手を添えるだけなのですが、そういうことで私たちはアエタ族やフィリピンのスラムのような地区に住む人たちとつながりを作っていけるのです。
 
 そういうなかで緑化活動も進められる。また、行った生徒は向こうに与えているだけでなく、何か持って帰って来ているのです。これは非常に説明が難しいのですが、ひとつの言い方をすると、すごくよい笑顔を作るようになります。今高校生を並べて、「笑顔を作りなさい」と言っても、これは無理です。ボランティア活動に没頭している時に、本人が気づかない状態で非常にきれいな笑顔を作るようになります。私たち顧問は、1年生で入ってきた子はなかなか笑顔を作れないことを知っています。昨日も顧問の先生と、「どうしたら、1年生のこの子たちが3年間で本当に美しい笑顔を作れるようになるだろうか」と話しあいました。そういう笑顔がアエタの村で初めて出会う人にも通じていくと今では信じています。
 
 神戸での年末街頭募金ボランティアは非常に厳しいものでしたが、そのお金は全部フィリピンの活動に注ぎ込んでいます。実はお願いなのですが、去年3月、一昨年3月の高校生の報告書を後ろに置いていますので、できましたら一冊500円で、一冊でもお買い上げいただければと思います。それから、素人の私が描いた鉛筆画の絵葉書をセットにして数年前から売っています。これは全部無料診療所の薬代に当てています。日本では考えにくいことですが、現地では500円あれば栄養失調で死んでいく赤ちゃんや子どもの命を救えます。また、出産時の処置が悪くて亡くなる10代の母親もあちらこちらにいます。大学生は、そこで医療補助を行なったり、出産に立ち会ったりしている人もいます。
 
 さきほどの神戸の活動には、若い女性の顧問の先生について行っていただきました。その先生の感想をごく一部だけ読ませていただきます。

 昼食時間が過ぎ、最後の一時間という頃になると、生徒はすっかりセンター街に溶け込んでいた。そして、こんな人の往来の激しさの中、注目を一身に集めて彼女たちは募金活動を行なっていた。協力者のひとりから、こんなすてきな言葉をいただいた。「篠山から天使が5人も来たんやわ。ありがたいね。」彼女たちが清い心で渾身を込めて行なった募金活動は、神戸の人たちには、こう映ったのかもしれない。今までは神戸の町は何の接点もない人々が行き交うだけの場所にすぎなかった。しかし、この日の募金活動を通して、やはり人はつながっているのだということを教えてもらった。募金に協力してくれた人も、それを見ていた人も少なからず同じ気持ちを抱いてくれたと思う。彼女たちの活動が、単に募金活動に終わらず、人を温かい気持ちにさせてくれる活動であったことは、新しい発見であり、そこに立ち会えたことを本当にうれしく思います。
 
 すごい人気がわいたとか、お金がたくさん入ったとかいうことではなく、すごい募金の風景が出ました。一生懸命「お願いします」という中にある心の温かさが、相手に通じていったのではないかと思います。お金を入れてくださる方も、高校生のそういうところを感じ取ってくださったというのが、さきほど感想を読んだひとつの理由です。そういう体験を積むなかで、相手の温かい心を高校生も察することができるし、通りがかりの人も高校生の気持ちを察することができるのです。高校生も、こういう体験がなければ、そういうことがありえないとは言いませんが、若いひとつの体験活動の中で、そういう温かい心を作るのは、人ではなく自分であり、教師はそれに沿うだけであると思います。私自身クラブを作った当初から、「教師は指導してはいけない」と生徒に言われてきました。とくにボランティアサークルでは、教師が指導するという部分はありません。生徒自らが考えてやっていくのです。

 最後になりますが、評価もないし点数もつけないけれど、これは総合科目であると思います。ねらいは「人を育てること」で、さきほど言いましたように教師が育てるのではなく、教師は生徒が育つ条件整備をしてゆくと考えております。これが、今日のテーマのまとめにはなりえないかもしれませんが、「それは、おかしい」など、みなさまのご意見をいただけたら私たちもうれしいです。とりあえず、これで終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました。