今日は、「子どものしあわせと親の役割」ということで、お話の準備をしてきました。 実は昨年の7月18日でしたか、先生方の研修に来させていただきましたので篠山は二度目でございます。今日はお父さんとお母さん向けのお話にしておりますので、そのときに来られた先生方は、前回の復習のつもりで聴いていただけたらと思います。 では、いつものように握手リレーをしていただきます。私の熱き思いを前からずっと後ろまで伝えていっていただきたいと思います。 こうして「こんにちは」と後ろの方に握手をするというかたちでいきましょうね。それでは、よろしくお願いします。がんばります。よろしくお願いします。 こんなことでもないと握手をすることはないでしょう。ありがとうございます。今日はライブですからね。ディナーショーのようにいきましょうか? ありがとうございます。これでも、来ないとさびしいものがありますから、全部つないでくださいね。まだ、続いていますね。私は、講演会の初めに握手リレーをさせていただくことが多いです。会場に来た最初は、知らない人もいて硬い感じがするのですが、「こんにちは」と握手してゆくとなんとなく笑い声が起こり、全体が和やかになります。このことがとても大切なのです。 私の専門は、子どもの心理学です。子どもがみなさんのところに、「お母ちゃん」「お父ちゃん」、あるいは「先生」と来るのは、うれしいとき、悲しいとき、不安になったときです。それ以外のときには、子どもは自分の世界で遊んでいます。 来たときに私たちは多くの場合、言葉だけで対応しようとします。そうすると子どもが小さければ小さいほど、気持ちは伝わらないのです。 みなさんの仕事というか役割のなかで一番大きなものは、いっしょにいて安心できるということです。人生の先輩として、何よりも子どもたちにとってなくてはならない人として、いっしょにいると安心できる。そのために大切なのは、触れることです。言葉というのは、伝わりにくいものです。 とくに小さい子どもは、言葉が十分に発達していないし、言いたいことが言えない。だから、そういうときに抱きしめてあげたり、少し肩に手をあててあげたりします。いっしょにいると安心できることが、何よりも大切なのです。その安心ということに支えられ、子どもは一歩ずつ自分の世界を作っていくといいます。出かけて行くということが大切なのです。 前回、夏の研修会でもお話をさせていただきましたが、幼稚園や保育園など子どもたちの集団のなかにひとり先生がいらっしゃると、そのことで安心できる時間と空間が広がるのです。 そこで子どもは思いきり遊びに取り組んだり、いろいろなことをしながら自分の世界を作っていきます。そういう意味で先生方のお役目というのは、お父さんやお母さんの延長線上にあります。 いつもうかがうことなのですが、二つ質問をしてゆきたいと思います。男性より女性のほうが多いようですね。いろいろな年代の方がお見えのようですが、20代の方は、どのくらいいらっしゃるのですか? 若いお母さん方は、20代なのですね。30代の方は、どのくらいいらっしゃるのですか? はい、ありがとうございます。40代の方は? ついでに50代の方は? 私も50代の終りです。60代の方は、いらっしゃいますか? はい、いらっしゃいませんね。20〜50代の方が対象ですね。それからもうひとつ、お子さんの数をおうかがいします。 お子さんがお一人の方はどのくらいいらっしゃいますか? はい、お若い方が多いみたいですね。 さきほどご紹介がありましたが、私は少子化と教育の専門委員をしていました。 今の日本は、少子化傾向の歯止めがきかないくらいにどんどん下がっています。毎年6月中頃に人口動態調査の結果が発表されるのですが、一人の女性が一生の間にお産みになる子どもの数は、どのくらいまで下がっているかご存知ですか? 1.55を割り、どんどん下がっています。これは少し特殊な数です。結婚なさる方、なさらない方、結婚なさっても、お子さんをお産みになる方、そうでない方といろいろですが、平均した数ということです。今それが、1.33まで減ってきています。 この数は意識してほしいと思います。お二人から生まれるというとおかしいかもしれませんが、お父さんとお母さんがいらっしゃらないと子どもは生まれません。 この数が2.01くらいまで上がらないと今の日本の人口を維持できません。どんどん下がってきているのが日本の現状です。 ご存知だと思いますが、15歳以下の人口と65歳以上の人口が逆転したのです。私たちの子どものころは、15歳以下の人口のほうが多かったのですが、65歳以上の方が多くなったのです。 少子高齢化がいつも対になって話されるように、そういう高齢者を支える労働力が減ってきているのが日本の現状です。 それでは、お子さんお二人の方はどのくらいいらっしゃいますか? はい、ありがとうございます。 お二人の方がその程度おられるのですか。その方に、性別の組み合わせもお聞きしたいと思います。 男男、女女、男女という組み合わせがありますね。男の子と女の子の組み合わせの方、もう一回手を上げていただけますか? 私はもともと心理学出身の人間です。たとえば、こんな新聞記事を見ると時代のトレンド、はやりが目につきます。 175cmくらいの優しそうなお父さんがはやりです。ご主人そうですか? 私は週刊誌を買いませんが、たまに見てみると結婚相手には希望欄には優しい人の人気が高いようです。 二番目に気がつくのは、髪の長いお母さん。これはやはり、優しさのシンボルだと思います。 つぎに気がつくのが、男の子と女の子の四人家族で「しあわせ貯金」とか。今手を上げていただいた方は、標準的な日本人のイメージに近いご家族だと思います。 男の子と女の子がいて四人家族、しあわせというのがパターンになるのだと思います。 つぎにお子さん三人の方は、どのくらいいらっしゃいますか? ほう、がんばっていますね。ありがとうございます。みなさん下支えですね。今はお母さんも働いていることが多いので、二人まではなんとかというけど、三人目までは難しい現状だと思います。 私が子育てをしていたころは、今よりもう少し前の時代でしたが、子どもが三人のときは大変でしたね。二人なら、「だっこ」と言われてもだっこできますが、三人になるとこんな感じで抱きしめられません。今は車社会になりましたから少なくなりましたが、昔は自転車で送り迎えをしていました。たぶん今は反則だと思いますが、そんなことを言っておられませんから、自転車の後ろに5歳くらいの子を乗せ、真ん中の子はハンドルのところに座れるようにし、一番下の子はおんぶという定員満杯の自転車で、前のかごにはミルクなどの買い物をいっぱいに載せて、というような時代でした。 岡山市内に住んでいますが、今でも、年に一回か二回くらいそんな昔なつかしいお母さんを目にすることがあります。 そのお母さんを見ると思わず、後ろから手を合わせてしまいます。運命共同体を絵に描いたような感じがするじゃないですか? お母さんがひっくり返ったら、みんな大けがをしてしまいます。でも、そういうお母さんががんばってくださる中で子どもも育っています。 私自身も男三人兄弟でした。私が大学に受かったとき母がこんなことを言いました。 「あんたも大学に受かって、お母さんうれしいよ。でもちょっと寂しい。おにいちゃんみたいに遠い所へ行って下宿する。うれしいけれど寂しい」 そのことを今でもよく覚えています。 「自分が女として母として、自分の人生を思い返してみると、ひとりをおんぶして、両方の手に二人つないで、とにかく髪を振り乱して無我夢中に生きたあのときが今一番なつかしい。子どもがひとりずつ巣立っていくのは、うれしいけれど寂しい」 と言いました。自分が今そういう年になって非常によくわかります。 手を挙げてくださった方は、まさに今当事者として本当に大変だと思います。しかし、あっという間に通り過ぎてしまいます。 親も子どもが増えれば増えるほど大変だけれど、忘れてもらっては困るのは子どもも大変だということです。 ひとりっ子なら全部ひとり占めできるけれど、二人ならそれだけ分ち合わねばならないし、三人ならもっとというようになりますね。 私は三人兄弟の中子でしたから、つくづく思います。三人いると手を挙げてくださった方、中の子どもに少したくさん愛情を注いであげてください。 お兄ちゃんは何年間かひとりっ子だったわけです。私の番だと思っていたら、弟か妹が生まれるわけです。お兄ちゃんは全部さらで、私は全部お下がりでボロボロになるから、弟はまたさらなのです。 この人とこの人がさらで自分だけお下がり、何かすごい矛盾を感じましたね。たくさんご飯を食べて、お兄ちゃんより大きくなって、一度でいいから自分のお下がりを兄貴に着せてやりたいと思って育ちました。そういう時代にはならないまま、今にいたっています。 お子さんが四人の方、いらっしゃいますか? 会場によってはいらっしゃるのですが、ああ、いらっしゃるのですね。 ありがとうございます。五人の方いらっしゃいますか? さすがにいらっしゃいません? 六人の方? まさかいらっしゃいません? と言いながら、ここで私が手を挙げるんですね。 (会場) エエーッ! 何ですか? それは? まぎれもなく私には、子どもが六人おります。男の子が三人、女の子が三人です。もう自分でも信じられないのです。 何を考えているのかと当事者としても思います。でも大きくなりまして、長男は31歳、末っ子は18歳で大学生です。 あっという間に来ました。やはり私自身、子どもにしあわせであってほしいと思います。それは、みなさんといっしょだと思います。 でもいったい、今何に気をつけなければいけないか、どこがポイントかということを私なりに考えてきました。 そのことを今日は問題提起として、お話させていただきます。その中から、みなさん自身も考えていただきたいと思います。考えるきっかけになればそれでいいと思っています。 親子関係のことを考えるとき、私はいつも親というところからお話をしていきます。子どもを授かって初めて、「お父ちゃん」とか「お母ちゃん」とか言ってもらえますね。これは当たり前のことです。 私は子どもを授かったといつも言っていますが、当たり前ではないのような気がします。 どんなに医学が進歩しても、必ずしもそうではないと思います。さいわい今日はお子さんをお持ちの方に集まっていただいていますから、子どもを授かって私たちは、「お父ちゃん」「お母ちゃん」と言えますね。これは大切なことです。 お腹を痛めた子どもがどうしても授からないときには、養子か養女を迎えて、その子を一人前になるまで育てますという環境の中で、私たちは父親であり、母親であると思うのです。これは一点大切なことです。 もうひとつ大切なことは、私たちも最初から親であったわけではなく、私たちも子どもで、私たちにも親がいるということです。 この関係というのはとても大切です。私たちも子どもだったという経験があるからこそ今、逆に親になれているのです。 みなさん自身も子どもだった、親にいろいろなことがあって育てられて今にいたっているということが、みなさんの育児の原点なのです。これは当たり前みたいですが、なかなかわかりにくいところがあります。 おサルさんの実験の話を少ししましょう。 育児、つまり子どもを育てることは体験に基づいたことか、本能的なことか、研究した人がいます。アメリカのウィスコンシン大学での有名な実験ですので、大学で学ばれたことがあるかと思います。 ハウという人がサルを使って育児行動の研究をしました。親ザルから子ザルが生まれるとここを切り離し、孤児ザルにします。 この子ザルは、一度も母親に抱っこしてもらったことも、お乳を飲ませてもらったこともありません。人工飼育をするのです。 その子ザルが大人になったとき、子どもを産ませます。一度も親から育児をしてもらったことのない子ザルが母親になったとき、どういうふうに育てるのか、これは非常に学問的に興味のあることなのです。どうなったと思います? 結論から言いますと、その母ザルは産むところまではできるのですが、その後生まれた子どもを抱こうともしないし、お乳を飲まそうともしません。 生れ落ちた子ザルは、三日目に飢え死にしてしまいました。 この研究は非常に反響を呼び、いろいろなところで同じ状況を作って研究が行なわれました。日本でも大阪大学の人間科学部でおサルを使ったこういう実験をしています。やはり結果はいっしょなのです。 これは、おサルの結果で人間にはできません。親ザルから生まれた子ザルの場合と同じように、私たちも子どもだったのです。 要するに、私たちが子どもだったときに親にお乳を飲ませてもらったり、おしめを替えてもらったりした、いろいろな経験がみなさんの中に体験としてあります。もう記憶はないかもしれません。みなさんが親になったときに裏返しとして、それが育児行動というものの基本になっているのだと思います。それが、とても大切なことなのです。 もうひとつお話します。みなさんの小学校三年か四年くらいのことを少し思い出していただくと、そのころこういうことを思った人が多いと思います。 私にはとくによく覚えていて、そのことを今でも忘れていません。私はお父ちゃんとお母ちゃんから生まれた。お父ちゃんはおじいちゃんとおばあちゃんから生まれた。小学校二年生ころまでは、曾おばあちゃんもいましたから、おじいちゃんは曾おばあちゃんから生まれたというふうなことをずっと遡っていくみたいなことを小学校四年生くらいのときに思ったりするのですね。 田舎が氷上郡なのですが、仏間にゆくとご先祖様の写真が飾ってあるのです。それを見ていると、こういうことを思うのですが、そのころはわかりませんでした。 でも、命というものの流れ、命はどこから来たのかということをふっと思いました。 こういうことが子どものころ頭にあると、新聞記事でも読んでいるとそういうものに必ず目がとまったりするのです。 去年の7月17日新聞の一面に700万年前の最古の猿人という記事がありました。系統図のようなものが書いてあり、思わず目にとまってしまいました。この記事を信用すると、北アフリカのあたりで進化したらしいのですが、今の学問では700万年くらい前まではずっと遡れるらしいのです。 それは私の専門ではないですが、今日ひとつだけ確認できることがあります。 私は岡山から来てここでお話をさせていただいていますが、これはどういうことかと言うとみなさんのところへ流れて来るまでに、親から子へという命の流れが一回も切れなかったということです。そう思いませんか? 気の遠くなるほどの時間のかなたから命が流れ流れて、みなさんのところへ行っているし、私のところへも来ている。そして私たちが子どもを授かることによって、もうひとつ次の世代へ伝わったということです。 もし、私たちに子どもが授からなければ気の遠くなるほどの時間の中を流れた、その命の流れの枝葉はとりあえず私で終りということになります。 そして、私が次にお話したいのは、どんな時代にあっても、地球上どこであっても、子どものしあわせを願わない親はいないということです。 100万年前の親だろうが、アフリカで子育てをしている親だろうが、しあわせであってほしいというのは共通の願いだと思います。 では、私たちはこの幼児期にどんなことに気をつけてあげればいいのか、もうひとつわかりにくい時代になっているのではないでしょうか? それでは、子どもが育つというところに力点を移そうと思います。 私たち自身も子育てということをしてもらいました。その結果、今があるわけです。 子どもが育つというのはいったいどういうことなのだろうかということです。 いつも学生さんに説明しているのですが、子どもというのは二つの願いを持っていて、その二つ願いのあいだを行ったり来たりしながら育っていくのです。 一番目の願いは、くっついていたい、甘えていたい、頼っていたいというもので、子どもが小さければ小さいほど強い願いなのです。とくに人間の赤ちゃんは未熟な状態で生まれてきますから、生まれてからとくに一年くらいのあいだは、うーんと親に依存していないと生きていけないのです。 爬虫類などは違うのです。 とくに一番高等な哺乳動物である人間の場合、非常に未熟な状態で生まれてくる。だからこそ、親にしっかり依存していないと生きていけないです。 くっつく、世話をしてもらう、お乳を飲ませてもらう。だから、子どもの持っている一番目の願いは依存の願いです。だれかに依存したい、くっついていたいという願いです。 もうひとつの願いは、1歳半、2歳くらいから強くなりますが、 「お母さんとは違う、お父さんとは違う、ボクはボクだよ、ワタシはワタシだよ」 という願い、自立の願いです。 子どもが育つというのは、この依存と自立のあいだを行ったり来たりしながら自立していくということです。 相反することになるかもしれませんが、しっかり依存できて、だれかにしっかりくっついて安心できて初めて一歩踏み出していくのです。 何かあると必ず帰ってくる。また出かける、帰るということを繰り返しながら、自立をしていく。 私たちもそうして育ってきて、今にいたっているのです。だから、依存することを止めさせると自立はできないのです。 要するに、しっかり抱きしめて、しっかり世話をすると一歩踏み出せるのです。 私はこれをいつも長方形で囲んで説明をします。今横軸を書きましたが、0歳、1歳、20歳という時間軸です。縦軸をこういうふうに長方形に書きます。 0歳のとき、生まれてから一年くらいのあいだは本当に100%親に依存しなくてはいけない子が、だいたい1歳前後で自立が始まります。自立の始まりは三つ目安があります。 一番目は食べることの自立です。 お乳を飲んでいた子が、離乳ができて自分で食べることが始まる。それまではお乳を飲ませないと生きていけないでしょう。だから、歯が生えてきて、とにかく自分で手づかみでも食べるようになるのは、ひとり立ちの大切な目安なのです。 二番目は、コミュニケーションの自立です。 泣くより仕方のなかった子どもがだいたい1歳くらいで最初の言葉、「まんま」などとしゃべるようになります。これはお母さんと言葉でもって、やりとりができるようになるということです。 0歳の時に体が生まれる。そして、言葉を習得することによって、日本語なら日本語という文化の中にもう一回生まれるということなのです。言葉を習得するというのは、すごいことなのです。それが始まるのが、1歳くらいです。 ここで注意しなければならないのは、今私たちは忙しさの中でテレビに子守りをさせるというようなことが増えてきている点です。そういうことがあれば、気をつけていただきたいと思います。 テレビの前に子どもを置いておくと子どもはテレビを見るので、ほかのことができます。つい便利だからテレビの前に子どもを置いておくことが多くなってきています。これが問題なのです。 子どもが言葉を習得する一番初めは、お母さんがお乳を飲ませて「あーよかったね」とか、濡れているおしめを換えてあげて「あー気持ちよくなったね」というような言葉かけです。 そのように子どもの感じていることが言葉になり、言葉が育っていくのに、テレビというのは関係のない言葉がウワーッと子どもに降りかかってくるのです。 こういう状態の中で困るのは、私は今こういう周波数の音でお話をしていますが、そういう音に対する注意を全部しなくなる、話を聞けなくなるということです。 「お集まりよ」などと言っても、集団の中で全然関係なく動く子どもが増えていることが最近問題になっています。 原因のひとつとして、言葉の習得で一番大切な「一対一の言葉かけ」の中で言葉が育つときに、関係のない雑音のような音がブァーッと子どもたちの周りにあり、正常な言葉の発達が非常にゆがんでしまうことがあげられます。 テレビをお母さんとやり取りをしながら見るのではなく、子どもだけをポーンとテレビの前に置いておくというのは、ぜひ止めてください。言葉の発達がゆがむという非常に大きな問題です。 というのは、私たちがテレビを見るのと、子どもがテレビを見るのとではまったく違うからです。 私たちはそういう経験を持ったうえで見ているのだけれど、これくらいの子どもがテレビを見ているのは、何か動くものとか、音のするものの方を反射的に向くというだけのものです。 そういう状態にさらされていると、こういう一対一のところではうまくいかないのです。 三番目は、移動の自立です。寝返りをうてるようになり、座れるようになり、歩けるようになるというのが、だいたい1歳くらいです。動き回ることができるようになります。 動き回ることによって、子どもの智恵がどんどんついてくるのです。今寝ている子どもが、寝返りをうてるようになって、這えるようになって、立てるようになって、動けるようになると子どもはこちらからもあちらからも、ものが見えるようになり、ものの見方がとても膨らんできます。そして、適切な言葉かけをしてもらうことで、言葉の数がどんどん増えていくのです。それが起こるのが、だいたい1歳くらいのところです。 今、青で書きましたが子どもの育ちというのは直線ではなく、いくつかの山場があります。 ちょっと聞いてみましょう。三歳児をお持ちの方は、どのくらいいらっしゃいますか? 「イヤダ、イヤダの三歳児」ですが、今までの赤ちゃんみたいなのとは違って、子育てが難しくなるという感じになります。 たとえば自分の好きなものがでてくるなど、自分の意志を持ってくる時期なのです。 三歳というのは非常に大切な時期で、「小さな大人」という言い方をする人もいるくらいで、何でも大人ができるようなことはひと通りできるようになるのが三歳なのです。何でもできるつもりになるというか、体は小さいけれど一人前くらいの意識を持っているのです。 私たちから見れば、まだまだだけれど何でもできるつもりになっている。そこを否定すると子どもは、「イヤダ、イヤダ」とものすごく反抗するのです。それを上手に認めてあげて次の段階に持っていくのですが、なかなか難しいと思います。 たとえば、スーパーマーケットの入り口に商品を入れるかごがありますね。いつも行っているとお母さんがそこで何をするかわかるから、駈けていってかごを取るのです。 そういうときみなさん、どうおっしゃいます? 「ありがとう。よく気がついたね」と言いますか? 「あんた、いらんの」というと怒りますよ。 「じゃあ、今日はリンゴが安いから、リンゴを三つ買おうね。1、2、3」 と言って、生活と合わせて言葉も習得するみたいなかたちでいけばうまくいきますが、否定すると子どもは怒るということです。 この時期は、まねることを通して学ぶ、「模倣期」といいますが、これがとても大切です。 まねることを通して周りのものを自分の中に取り込んでいって、いろいろなことを習得していくのです。 学ぶということの原点は、まねるということなのです。それは、とても大切なことです。 その次に行きましょう。 次は9歳、小3です。9歳のお子さんをお持ちの方、いらっしゃいますか? そういう研究をしていると面白いのですが、9歳というのが幼児と青年期のちょうど節目なのです。 本当にいろいろな実験をしてみてもよくわかるのですが、9歳の壁ではないけれど、9歳というのがやはり中間反抗期といいますか、ちょうど育ちの中の節目のところです。9歳までと9歳からあとでは、教育の質が違うと私は思います。 9歳までの教育では、具体的に繰り返し、繰り返し人生の大切なことを子どもの心の中に注ぎ込んでいく、具体性と繰り返しが大切なのです。これが9歳までの教育のベースになることだと思います。 この中にも、お子さんにこんなことをおっしゃる方がいらっしゃると思います。 夜なかなか寝ないと早く寝させるために、 「寝る用意ができたら、好きな絵本を一冊持っていらっしゃいよ。読んであげるから」 と言う。 すると子どもはお母さんに久しぶりに本を読んでもらいたいから、早く寝巻きに着替えて読んでほしい本を持っていきます。 すると母親は、添い寝をしながら読んであげるのですね。でも、ここでひとつ問題があるのです。何だと思います? さきに寝るのがお母さんに決まっているのですね。横になると眠いじゃないですか。 そうすると子どもが「お母ちゃん」と起こして、「どこまで読んだかな」と言いながら読み終えるのです。 でも、必ず子どもに「もう一回」と言われません? 「眠いのにもういい加減にして」と思うけれど、「もう一回」と必ずやられます。 だから、「もう一回だけよ」と読んであげる。この繰り返しなのです。 知らないからではなくて、子どもは知っているけれども何度もそれをなぞるようなかたちで自分の中に取り入れていきます。これが大切なのです。 それにどうつき合ってあげるかが、親にとって大切なことなのです。 具体性と繰り返しなのですが、おじいちゃんやおばあちゃんとお孫さんのあいだというのは非常に相性がいいのです。 私たちの生活の智恵などいろいろなものは、だいたいおじいちゃんやおばあちゃんから孫にというように隔世遺伝的に伝わってきたのです。 今それが壊れてきて、核家族になっているけれど、おじいちゃんやおばあちゃんと孫の関係は非常にうまいシステムだと思います。 キーワードはこれですよ。だいたい年取ったら同じことの繰り返しが多くなるじゃないですか。 ねえ、うまくいってる。 だいたいおじいちゃん、おばあちゃんというのは人生をひと通り送って、本当に人生のエキスみたいなことをかわいい孫に何度も何度も教えるのです。 そして、私自身もそうでしたが、昔話などの話はただ面白いだけではなく、人生の教訓とか、人間がいかに生きるべきかみたいなことが入っているのです。 そういうことを日本人の智恵として、繰り返し教えていったのです。 日本の産業構造がどんどん変わって、こういうことがなくなって核家族化しました。だから昔話ひとつとっても、昔はおじいさんやおばあさんのお膝で私たちは教えてもらっていたけれど、今はテレビの昔話で北海道から沖縄の子どもたちまで同じ昔話を聴いて育っているのです。 そういう意味で日本文化の質が非常に変わってきています。 「知ってる、知ってる」 というかもしれないけれど、智恵と知識はどこか違うと考えています。 智恵は知っていることができること、自分の身についていること、体験を通していることであり、知識は知っているだけみたいなところがあります。 そういうふうに日本の文化の質が急激に変わってきている時代であると思います。 だから、9歳までに人間の人生で一番基本的なこと、約束を守る、借りたものはちゃんと返すなどという、非常に簡単な人間関係のいろはのようなことをきちっと子どもに伝えてゆく。 9歳をこえますと具体から抽象の世界へ入っていきます。 たとえば、1、2、3では1より3のほうが多いとわかるけれど、1/2と1/3ではどちらが大きいかと言われると、少し抽象的でしょう。わかりにくいでしょう。ですから、小学校3年生をこえると、繰り返しは好きではなくなり、具体から抽象の世界に入り、青年期に近づいてきます。 そうすると一人前の人間としてというとおかしいけれど、 「じつはお母さんは今こんなことを思っているのよ」 みたいなことを話してあげる。 「お父さんの会社は調子のいいときはこうやったけど、最近きついから」 と言うと、 「じゃあ、ボクは少しお小遣いをがまんしよう」 と、わかってくれるようになるのです。 次は第二反抗期の14歳、中2です。 14歳で問題を起こしている子どもが多かったけれど、今の子どもたちは体は早く大きくなるけれど、精神的には非常に幼いのです。 ここを通り越して一人前になって、社会に出て行くのです。 今少し大急ぎで書きましたが、一山、二山、三山と越え何度も上がったり下りたりしながら、一歩ずつ登って社会に出て行けるのです。 15歳で義務教育を終えれば、昔はもうそれで社会に出ていましたが、高校、大学と経済的依存がどんどん長くなってきて、一人前になるのが遅れているのが、日本の成熟社会の大きな問題となっています。 さて、これからがいよいよポイントなのですが、私たちが育った時代と私たちが親になって子どもを育てている時代のズレを意識しておかないといけません。 せっかく子どものためと思ってやったことが、その通りになっていないことが今増えてきているわけですね。 長い人間の歴史を考えたとき、今の時代の10年というのは昔の100年に相当するくらいの大きな変化があります。 自分が子どものとき、こうだったからというのが当てはまらなかったり、ちょうど裏返しになってきたりしていることがあります。 そのことに気づいていただくために二つ質問をしますので、どちらかに手を上げてください。 みなさんが小学校1年生だった時に、パソコンやワープロなどの電子機器が家にあったという方、いらっしゃいますか? あのころ、なかったですよね。 今ほど普及するとは思わなかったです。これは、物のレベルの問題です。私たちが子どものころになかったようなような物が、このさきどうなるのだというくらい、どんどん増えています。 携帯で写メールというのがありますね。写真があんな小さな物で撮れて、電波で送れて、向こうで見られるなんて信じられないですね。昔もテレビ電話くらいはあったけれど、あんな小さなものの中でそういうことができるとは、私たちの子どものころは思いもつきませんでした。 しかし、今の子どもたちの世界には、そういうものがどんどん入ってきて当たり前のことになってきているでしょう。 もうひとつ、おうかがいします。 みなさんが小学1年生だった時の夕食の時のことを少し思い出してみてください。そのころ、みなさんの家で夕食はだいたい家族そろって食べていたという方、念のために手を上げてください。 はい、約8割の方がそうです。 今、親になって子育て真っ最中のみなさんの家で、昔のように家族そろって夕食を食べている方は、手を上げてください。 少なくなりましたね。 つまり、私たちが子どもだったころ、物はなかったけれど世の中自身がもう少しのんびり、ゆったりとしていました。 みなさんは、そういう時代に育ってこられたわけです。昔なかったものがたくさんある今、私たちの子どもの周りにも、たくさんのものが増えてきました。 そしてそれとは裏腹に、私たちの周りから、ゆとりがどんどん失われてきています。 よく言われますが、リッシンベン、つまり心を亡くすと書く「忙」という漢字は本当によくできていると思います。時間的、精神的ゆとりがどんどん失われつつあるということをわかっていただきたいと思います。 子どもが育って行くプロセスの中で、このことが影響してきます。 子どもがいろいろなことが初めてできるようになるとき、たとえば、ボタンをとめるという動作でも、初めてしようとするときは、ずいぶん時間がかかります。 そうすると、我慢できなくなって、手伝ってしまう。私たちが忙しくて時間がないからです。 子どもが自分で何かしようと思ってやっているのに、もうさきに親が言う。さきに手が出る、口が出る。まあ足が出る人もいますが、けがをしないようにね。 この自立直線は、こういうふうにはいかない。当然、3、4歳ならできることができないのです。 そういうのを私たちのほうでは、「無意識の過保護」と呼んでいます。 親は過保護にしているつもりはないのですが忙しいから、ついさきに手が出て、世話をしすぎになるという現象が増えてきています。 要するに、まかすゆとり、見守るゆとりが必要だということです。 子どもがいろいろなことができるようになると、親は少しずつ後ろに引かなくてはなりません。 子どもに生活は子どもにまかせて、「ああ、うまくできたね」というように認めてあげるということです。 昔みたいに子どもの数が多いと、うまくいくのですね。自然にできているのです。 上の子が3歳くらいの時に赤ちゃんが生まれるでしょう。 お母さんは赤ちゃんに手がかかるので、見守らざるを得なくなります。 「ああ、けいこちゃん、おねえちゃんだね。できるね。おねえちゃんはすごいね」 というかたちで、できるようになるのです。 最近は子どもの数が少なくなってきて、ついこちらが忙しいと、いつまでたっても赤ちゃんの状態になって、自立が遅れていきます。 こんなことはこのようなところで話すような問題では昔はなかったのですが、今はそのことを少し頭の中に意識しておいてもらいたいと思います。 子どもが自分でしたがるなら、見守る、まかせるということが大切になってきているのです。 今から、小学校3年生の子どもの作文を読ませていただきます。『スミレと母ちゃん』という題で、2月の終りか3月の初めのころのお話です。 「ものすごく寒い日、ぼく学校の帰り道で紫色の花を見つけた。あっ、もうスミレの花が咲いている。ぼく、うれしくなった。そのスミレの花をとって、走って帰った。戸を開けるなり、『母ちゃん、見てごらんよ』とスミレの花をさし出した。そしたら母ちゃんが、『スミレぐらいで大きな声を出すな』と顔をしかめていった。ぼく、なんにもする気がなくなった。」 ありそうなことですよね。この男の子は、大好きなお母さんに春一番をプレゼントしようと、ランドセルを揺らして、はあはあいって帰って、お母さんに「はい、スミレ」と渡したときに、お母さんはその気持ちを受けとめるゆとりがなかったのです。 お母さんにとっては、べつにスミレは珍しくもないから、「スミレぐらいで、大きな声を出すな」と言う。 その次がすごいね、「顔をしかめていった」その最後、「ぼくなんにもする気がなくなった」とあります。 今、無気力、無関心というか、やる気のない青少年が増えてきている原因のひとつは、子どもを取り巻く大人の側にゆとりがなくて、子どもの心を受けとめきれてないのかなと私は思います。 聞くときも、耳を傾けて聴く、聞き上手になる。人間関係の学問をしておりますと、面白いですね。どんなお仕事でもそうですが、意識的には相手の言うことを7聴いて、こちらは3言うくらいが、いちばんうまくいくのです。しかし、相手が7言えば、こちらも7言い返すことが多いのではないですか? 言えなかった残りの4の分だけ、どこかで不愉快な思いをするわけですが、まず聴いてあげて、そのうえで「ふんふん、そうね」というように返してあげることが大切です。 この『スミレと母ちゃん』を書いた男の子の場合、すでにこの段階で親子関係にひびが入っています。 大好きなお母さんを喜ばせようとプレゼントしたとき、お母さんは受けとめてくれなかった、叱られただけだった。もう二度とこの子どもは花をプレゼントしないと思いますね。 このことが親子関係のひびとなって、どんどん積み重なっていき、ここの中学生のところで困ることになってきます。 体は大人になりますが、まだいろいろなことがわからない。そのときできるは、子どもの話を聴いてあげ、自分の人生体験を話してあげることではないですか? そして、子どもがこれを乗り越えていく。やはり、聴いてあげるというのは大切なことなのです。しかし、そこが切れてしまうと、「もう聴いてくれない」となります。そうなれば、この難しい青年期を乗り越えるのは、とても大変になってきます。 子どもたちは、幼稚園や学校でいろいろな体験をします。そのときに言いたいことがいっぱいあるのです。そのことを聴いてあげることによって、子どもの頭の中が整理できるのです。 私たちは復習というと、学校と同じように椅子に座ってこうしなければ、復習したように思わないけれど、学校で経験したことを言葉にする、聴いてくれるだれかに話すことが、子どもにとってはちゃんと復習になるのです。 「学校でこんなことを習った」ということを話すなかで、子どもの頭の中が整理できるからです。 だから、聴き上手な親になることは、とても大切なことだと思います。 しかし、昔と比べてどんどんゆとりがなくなり、そうすることが難しくなっている時代でもあり、また私たち自身もそういう気持ちを少し持たないと難しいと思います。 そのつぎにお話を進めていきたいと思います。 私たちが子どものころになかった物がたくさん増えている、親も忙しくなってきている、そういうなかでその増えた物を手に入れるために忙しくなってきたというズレのなかで問題になっているのは、子ども自身が「ほしいほしい病」にかかっているということです。 たくさんのCMが流れて、子どもの欲望を刺激し、「あれもほしい、これもほしい」、「あれ買って、これ買って」ということが起きてきます。 私たちも忙しいし、私たちの子どものころに比べれば豊かになっているので、つい買ってやるみたいなことになってしまいます。 一番問題なのは、我慢する心、自分の欲望をコントロールする力が今の子どもは昔に比べて弱くなってきているということです。 親が忙しいから、「あれ買って、これ買って」と何度も言って、親の注意を引こうとするのです。 親は、このレベルのことと思うから物で対応します。 すると、だんだん金額の高い物へとエスカレートしていくのです。 高等学校ぐらいになると歯止めが利かなくなって、「オートバイを買ってくれないと、学校を辞める」というようなむちゃくちゃなことを言いだす。本当に禁止されているような物まで、買ってくれと言うようになる。 それで、学校には内緒でオートバイを買ってやったら、事故を起こし友達と二人で死んでしまった。これは実際に岡山であった話です。 このようにどんどんエスカレートするわけです。こちら側のほうだったら、まだ何とかなるのですが、だんだん後に行くほど難しいのです。 子どもというものを車に例えると、車の中にブレーキの部分が組み込まれていないとどうしようもないではないですか。だから、自分の欲望にブレーキをかけるという機能を育てておかないといけないのです。 こちらでものを言うのではなく、こちらの心のほうでものを言わないといけないのです。 「あれ買ってくれ、これ買ってくれ」 と言われたら、まず 「どうして買ってほしいの?」 と聞いてください。どんどん聴いてあげてください。 「買ってくれ」と言ったときに、すぐこちらで対応しないでください。 「あれ買って、これ買って」と言って、親の愛情テストをしていると思っていただくとわかりやすいかもしれません。 買ってもらうことよりも、そのことを通して親が自分に関わってくれる、自分に向きあってくれるということが大切なのです。 「みんな持っている」というのに、日本人はとても弱いのです。自分の子どもだけ仲間はずれになったみたいでつらいのです。3割持っていると、「みんな持っている」と言いますから、惑わされないことです。 それで、少し待たせる。きちんと向きあって聴いてあげると、子どもは満足する部分もある。本当はそのときにこちらのことも言ってください。 「それは、お父さんとも相談しなくてはいけないし……本当に必要なら買おうね」 というような話です。 そのことを通して、親子でいろいろな話をするということを大切にしてほしいのです。そして、納得すること。他立ではなく、自立です。自分の欲望を自分でコントロールする、無理やり我慢させられるのではなく、納得して我慢ができるようにすることが大切だと思います。 そうは言っても、難しいと言うことは私も現に経験しています。 末っ子が去年の9月、高校三年のときに携帯電話がほしいと言いました。基本的には私はそれを受け入れられなかったのです。 それで、とにかく 「お父さんを納得させてくれれば認めるけれど、お父さんはお前にはまだいらないと思う」 と言いました。 子どもは、学割があるとか、いろいろ研究して説得しました。でも私は納得できない。5ヵ月くらいがんばりました。 よいか悪いかわかりませんが、結局子ども自身が銀行口座を開いて、お小遣いの範囲でやりくりをすることになりました。 私の口座から引き落とすと、無限にゆくじゃないですか。我が家では、小遣いの範囲でということで折り合ったのです。 ですから、あの子は無駄な話をしないで、上手に使います。ワン切り専門です。自分の枠の中でやりくりをしなくてはならないのだから、長電話をすると料金がかさむから、着信だけして向こうからかけてもらうようなことを考える。 希望の大学を探すときも、進学を希望する大学へ行って、 「大学に着きました。さてどうするか」 と兄弟にメールが入るわけです。 兄弟が、 「まず、食堂へ行け。昼食を食べ終わった人に、実はこうこうと聞け。そして希望の研究室へ行け」 などと指令が飛ぶわけです。それで自分の希望の研究室へ行き、先輩の話を聞いてきたということがありました。 要するに、物はとても大切なのだけれど、物をどう上手に使うか、使いこなせるかということを、やはり親子のやりとりのなかで育てていかなくてはいけない。 そのためには、ゆとりが必要ではないかと思います。今の時代の生活、物をどう有効に使うか、その智恵云々は必要ではないかと思います。 今、ものわかりのいいお父さんというのがありますが、子どもが何か言うと、 「もう、おまえの好きなようにしなさい」 というのは、必ずしも「ものわかりのいいお父さん」のすることではないと思います。 何か聞かれた時に、 「人生の先輩として自分はこう思うよ」 とか、 「オレがおまえの年だったら、こう思うよ」 とかいう話をすることだと思いますね。 最後の決断は子どもがすればいいけれど、そういう情報は与える。 やはり、私たちのほうが人生を長く過ごしているわけですから、その情報を伝えておくということが大切だと思います。 今、「ほしいほしい病」にかかっている子どもたちに物で対応するのは、少し待ってください。そうしないで、聴いてあげる。そして、自分たちの体験も話してあげる。その中で納得ができる。自分の欲望がコントロールできるようになることが、非常に大切だということです。 どうしてここでそういう話を強調してお話させていただくかと言うと、新聞や週刊誌に出ているような事件が、今いろいろな社会で起こっているからです。 保険金詐欺や銀行強盗など、いろいろな問題が起こります。事件を起こした人々がどういう育ち方をしたか考えてみると、心の中にブレーキが入ってないのではないかと思います。 欲望が肥大化し過ぎているのです。ブレーキが利かないままに社会に送り出したら、今は物が簡単に手に入るので欲望はどんどん膨れていって、どうしようもなくなり、その結果事件が起こってしまうということです。 こういう時代だからこそ、そういうことに注意しなければいけないのです。 よくする話ですが、ここに同じ収入のAさんとBさんがいるとします。少し大げさにして、AさんもBさんも1ヵ月50万円の収入があるとします。Aさんは1ヵ月に80万、Bさんは30万でやりくりしています。 ここで問題です。 AさんとBさんでは、どちらが豊かですか? 収入はいっしょなのですが、支出が違うのです。このからくりをみんなで考えたいと思います。Aさんは、収入以上の生活をしているのだから、見かけは非常に豊か、派手に見える。 しかし、毎月30万ずつの赤字が膨らんでゆくのです。 それに比べてBさんは、20万ずつ貯金がたまる。これが本当のゆとりだと思うのです。 しかし、これは見えませんね。見えるのは、ここです。 家庭のレベルから、国家のレベルまで考えたときに、このことはとても大切なことです。 収入の中で納得してやりくりできるように家庭を運営し、子どもたちをそのように育てておかないといけません。 収入以上の支出をさきに身につけさせることほど人間を不幸にすることはないのです。非常に恐ろしいことです。 なぜこういう話をするかと言うと、国家予算は80兆で、税収は50兆しかないからです。どんどん膨れて666兆円になり、わかりやすく話せば赤ちゃんからお年寄りまで日本国民全部が押しなべて、ひとり当り520万円ずつの借金を背負わされているということです。 もっと大盤振る舞いすればいいですか、どうですか、ということですね。そしたら、それをどう切り詰めていくかをみんなで考えなければいけないと思うのです。 見かけは豊かだけれど、空洞化してきています。日本の国家の非常に大きな問題だと思います。 子どもを育てるレベルでも、そのへんを考えて、長い目でその子の一生を考え、今物をポンと与えるより、時間がかかるかもしれないが自分で納得して我慢ができ、自分の欲望をコントロールできるような能力を身につけさせておいてあげることが、とても重要になるのではないかと思います。 では、そろそろ最後のしめくくりのお話に移って行きます。今の親子関係には、矢印が一本しかなくなっていることが問題なのです。 親から子どもへ矢印しかないことが問題なのです。それは、「してあげて」、「してあげて」という矢印です。 矢印が一本しかないなかで育った子どもは、「してもらって当たり前」になります。 今の子どもたちの育ちは、「してもらって当たり前」なのです。 親の側は、こんなにこんなにしてあげているのにと思っていても、出てくるのは、「あれしてくれない、これしてくれない」という不平不満しかないのです。 「何でこんなに一生懸命してあげているのに、こんな子どもに育ったのだろうか」ということになると思います。 私がいっしょに考えたいのは、もう一本の矢印の復活なのです。 子どもたちがいろいろなことをできるようになったときの出番が今ないのです。持っている能力を発揮する場がなく、発揮させていないのです。 いつまでたっても、「してあげる」だけで赤ちゃん扱いをして、ここの能力が発揮できていない。「頼み上手」「まかせ上手」「認め上手」のお父さん、お母さんになってほしいと私は思います。 頼むというのは、その能力を認めるということです。まかすというのは、その能力を発揮する場を与えることです。 そして、「ありがとう。こんなに役立ったよ」とそれを認めてあげる。そのことを通して子どもは、相手を喜ばせることの好きな人間になります。 最初は、一番身近なお父さん、お母さんです。何か頼まれる。そのことを通して、「ありがとう」と言ってもらう。そう言ってもらうことの気持ちよさを子どもは知るのです。 自分のできることで一番身近にいる相手を喜ばせることができてうれしいと感じることがとても大切なのです。 家庭教育の話をしていますが、戦後の教育のなかでこのことが抜けてしまったのです。 「お手伝いなんかしなくていいから、お勉強しなさい」 というかたちで入ってきました。 しかし、何のための勉強なのでしょう。 私たちが学び、勉強するのは、自分の知識や技術を身につけ、そのことを通して周りの人のお役に立つ、そのためなのです。そのためにこそ学ぶということが意味を持ってくるのです。 この基本的な体験を9歳までの児童期にかけてしておくこと、させておくことが大切です。 相手が喜んでくれることがうれしいこと、そのためにもっと学び、もっと知識を増やす、学ぶとはそういうことなのです。 歌が得意な子だったら、歌をうんと練習して喜ばすことができれば、多くの人がコンサートに来てくださる。手先が器用な人だったら、美容師さんになって周りの人を喜ばすことができる。 私はどんな職種の人であっても、みんないっしょだと思います。どういうところが繁盛していて、どういうところがそうでないかを考えるとき、相手のお客が喜んでくださるということが大事ではないですか。そのことを一生懸命考えて、そのためにいろいろ工夫をする。そのことが好きである。それが、とてもすばらしいことだと思います。 いま日本の子どもたちが直面している非常に大きな問題は、学ぶということに意味が見いだせなくなってきているということです。 学校は友達がいるから楽しいけれど、学年が上に上がれば上がるほど学ぶということが無意味に考えられてしまうのです。 何のために学んでいるのかということが、子どもたちに伝わらなくなってきています。それが非常に大きな問題なのです。 だから、幼児期から児童期にかけて、「頼み上手」「まかせ上手」「認め上手」になってほしいのです。 一番身近にいるお母さんから、一番身近にいるお父さんから、始めなくていけないのです。 塾に任せられることでも、学校に任せられることでもないのです。まず、家庭という社会の一番小さな単位のなかで、お互いがしてあげたり、してもらったりしながら、お互いが喜びあい、支えあうことで養うことができるのです。 そのことが家庭教育のなかでしっかりとあって、初めて学校生活のなかで知識や技術の学びが根づいていくのです。そこが基本だと思います。そこが抜けていると、学びというものは根なし草になってしまうのではないかと思います。 この時代に生きるとは何か、学ぶとは何か、働くとは何か、というような一番基本的なことを、みなさん自身が実際に働いておられるし、学んでこられたのですから、この時代にいろいろなことを子どもたちにどう伝えていくのかということです。 今日はお父さん方もたくさん来ていただいていますが、私は本当に今父親が見えなくなっている時代だと思います。 私たちが子どもだった時代は、本当に働く父親が見えていました。今は働いている父親が見えない時代です。 昔は一次産業の人が多く、私の父親も銚子で農業をしておりましたから、おやすみというといっしょにやっていました。 しかし今は、見えない父親、要するにサラリーマン父さんが増えてきています。 家に帰って疲れ果てているサラリーマンのお父さん。その見えなくなったお父さんをますます見えなくするお母さんも増えてきています。 お母さんは、ぜひお父さんの通訳をしてあげてほしいのです。お父さんはどんな仕事をなさっていて、それがどんなことなのかは、子どもには見えないでしょう。それを見えるようにぜひ伝えてあげてください。それが必要だと思います。 そのなかで、やはりあこがれる教育効果がとても大切だと思います。 今の子どもたちには、あこがれがないと本当に思います。 小学校高学年くらいのときに何かにあこがれる気持ちをどう育てるか。具体的に思えるようにしなくてはいけません。 私も含めて見えなくなってきている親を見えるようにするにはどうすればいいか。 例えば、職場訪問ではないけれど、自分が汗を流していること、自分が命をかけていることをやはり見えるように、春休みや夏休みなどにそういうところへ連れて行くとか、建築関係なら建築のそういうところを見せてやるとか、そういうかたちで伝えていかなければいけない時代に今来ているのではないかと私は思っています。 本当に今の時代というのは、生産することに喜びを感じられず、消費だけが肥大化している時代だと思います。だからこそ、親子でいっしょに何か生産的なことをするよう心がけていかねばいけないと思います。 消費をいっしょにすることも大切かもしれないけれど、もっと大切なのは何かを作り出してゆくこと、何かを生産することを親子で共有することだと思います。 私自身は、おじいちゃん子でしたから、その思い出をお話します。 おじいちゃんから、人生というか、当たり前のことをいっぱい学びました。それが今自分を支えてくれていると思います。 たらいの中の水の話をみなさんは、お聞きになったことがおありでしょうか? 昔は産湯から始まって、洗濯もたらいでした。そのたらいに1cmくらい水を入れます。 具体的に何度も見せられましたが、これを自分のほうに引き寄せると、一見たまったように見えますが、水は全部抜けてしまう、流れてしまうのです。 「おまえは、こんなあさましい生き方をするなよ」 と言うのです。 その水を向こうに流してたまったら、それが全部返ってくると言うのです。 たぶん日本がこんなに平和で、お互いがそんなふうに生きてきたからだと思います。 しかし、今はどうしても自分のほうにこうなってきてしまう。その分だけやはりうまくいかなくなってくる。 子どもたちも、そんななかで自分だけよければいいというふうになってきて、その分だけギスギスしてしまうのです。 自分ができることで相手を喜ばすことができてうれしいという子どもに育てていただくと、どんな時代がきても、必ずその子は社会のなかで必要となる人物になってくるし、多くの人に支えられてくると思います。 ぜひ相手を喜ばすことの好きな子どもにしてください。勉強はできたほうがいい。できなくてもいい。いろいろなことがあると思いますが、その子なりの能力を伸ばして、そのことを通して、周りの人を喜ばせることが好きな人に育てていただければ、必ずその子なりに社会のなかで自分の位置をじっと育ててくれる、確保できるのではないかと思います。 最後に若いお母さんのための歌を一曲用意しました。テープレコーダーが小さいのですが、まあボーッと目を閉じて聴いていただければと思います。しゅうさえこさんという若いお母さんが作られた『きっとしあわせ』という歌です。 ご静聴ありがとうございました。 |