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私たちは過去において、ハンセン病は怖いものだ、治らない病気だ、遺伝する病気だ、あるいは前世の報いだなどと、間違った観念を持っていました。 科学技術が進んで、病気のことも正しく理解できる時代になっていても、間違った観念をぬぐい去ることがなかなかできないのです。 社団法人「日本広報協会」の冊子の中にも、ハンセン病元患者」という表現が用いられていますが、これは、元患者の皆さんで組織されている会でも現在検討されているところですが、あるフォーラムでの発言に、「インフルエンザ元患者などという表現がありますか?」という問いかけもありました。 人が幸せに暮らしていく社会を作り出すためには、流言飛語に類することや、根拠のない言い伝えを鵜呑みにしていくことではなく、物事を正しく見ることが大切なのです。物事を正しく知ることから、差別を無くしていくことが始まると考えるのです。 フォーラムに参加して、その時に頂いた広報誌の一部をご紹介して、皆さんの参考に供したいと思います。
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ハンセン病の患者・元患者の方々は、長い間、多くの差別と偏見に苦しんできました。これまで伝えられてきた病気への誤解、人権侵害の実態が、いま、ようやく正しく伝えられるようになってきています。ハンセン病について正しい知識をもつこと−−それが、ハンセン病に対する差別と偏見をなくしていく最初の一歩になるのです。 ●ハンセン病Q&A● 医学から見たハンセン病 Q1ハンセン病とは、どんな病気なの? A「らい菌」による感染症です ハンセン病は、極めて感染力の弱い「らい菌」によって引き起こされる、慢性の細菌感染症です。かっては「らい病」と呼ばれ、遺伝病のように考えられていた時代もありました。1873年に、らい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとり、現在は「ハンセン病」と呼ばれています。 昔は「不治の病」と考えられ、また、感染によって手足などの末梢神経の麻痺や、皮膚にさまざまな症状が起こり、病気が進むと顔や手足が変形する後遺症が残ることもあったため、差別や偏見の対象になりやすかったのです。 Q2ハンセン病は感染しやすい病気なの? Aいいえ、そうではありません ハンセン病の感染ルートについては、まだ統一した見解が得られていません。それは、らい菌が人工培養(試験管内での培養)ができないほど、とても弱い菌であり、感染ルートを特定する研究が難しいためです。現在では、鼻汁や唾液などによる感染が有力とされています。また、傷ついた皮膚を通じて感染するという説もあります。 いずれにせよ、私たちの日常生活のなかでハンセン病に感染する可能性はほとんどありません。 (Q3、た6参照) Q3感染した人は隔離されなければいけないの? Aいいえ、その必要はありません ハンセン病の感染力や発症力は非常に弱く、また、日常生活で感染する可能性はほとんどありません。 全国のハンセン病療養所で医療や看護などに従事する職員のうち、ハンセン病を発症した人は、90年間で一人も確認されていません。このことからも感染力の弱さは明らかです。かつて国が行っていた隔離政策は、重大な過ちだったのです。 Q4ハンセン病は治るびょうきなの? Aはい、治ります。 昔は衛生状態や栄養事情が悪かったために感染症が広まりやすく、また有効な治療薬がなかったため、「不治の病」として恐れられていた時代もありました。しかし、現在はさまざまな治療薬が開発されており、適切な治療を受ければ必ず治る病気になっています。いまも療養所で生活している人のほとんどが、ハンセン病そのものは治癒しているのです。 仮に発症しても、早期に治療すれば体に障害が残ることはありません。 Q5どのような治療を受けるの? A多剤併用療法が行われます ハンセン病の治療薬として1943年に米国で有効性が確認された「プロミン」は注射薬でした。その後はさまざまな飲み薬が開発され、現在はいくつかの薬を組み合わせる多剤併用療法(MDT)が行われています。 しかし、高齢の元患者の多くは、有効な治療薬のない時代に病気が進行してしまい、手足の変形や皮膚や知覚に後遺障害が残っているため、現在はそれらの治療を受けています。 Q6新たに発症する人もいるの? A国内では年に数人程度です。 現在、日本国内で見つかるハンセン病の新規患者は、年に数人程度とわずかです。日本では消えつつあるハンセン病ですが、世界では、まだいくつかの国で新規患者数が二千人を超えるところがあります。 歴史から見たハンセン病 Q7ハンセン病はいつごろからあるの? A一最も古くからある病気一の一つです。 ハンセン病は、世界各地で古くからその存在が知られています。紀元前600年ごろの古代インドの書物には、大風子という木の実からとれる「大風子油」を薬にしていたという記述があります。 Q8日本でのハンセン病の歴史は? A「日本書紀」や「今昔物語」にも登場します。 日本でも古くから病気に苦しむ人がいたようです。「日本書紀」や「今昔物語」などに「らい」の記述が見られます。鎌倉時代には、僧の忍性が奈良に日本最古の療養施設「北山十人間戸」を開いたという記録があります。 Q9ずっと昔の患者さんたちは、どのような扱いを受けたの? A隠れて暮らす人、やむなく浮浪する人がいました。 病気への差別や偏見も古くからありました。仕事もできず、家の奥座敷や離れの小屋などに隠れて暮らす人もいれば、その一方で、周囲の冷たい仕打ちから家や故郷を追われてあてのない旅を続ける「浮浪らい」と呼ばれる人たちもいました。 Q10国は過去にどのような対応をとったの? Aまず、浮浪するらい患者を収容しました。 明治時代に入って、諸外国から「患者を放置している」との非難を浴びると、当時の日本政府は、明治40年(1907年) に「癖予防ニ関スル件」という法律を制定して「浮浪らい」の患者を療養所に入れ、一般社会から隔離しました。 Q11自宅などで療養してい「た患者への対応は? Aすべての患者を強制的に隔離する政策がとられました。 昭和4年(1929年)に、ハンセン病患者を見つけ出して強制的に入所させる「無癩県運動」が始まりました。また、昭和6年(1931年)には新たに「癩予防法」が成立し、すべてのハンセン病患者を強制的に隔離してハンセン病を絶滅させようとする政策が決定づけられます。このようにして、全国各地に国立療養所が設けられ、 在宅の患者も含めたすべての患者を隔離する国の政策が、およそ70年間も続いたのです。 Q12患者たちはどのような被害を受けてきたの? A外出も退所もできず、人権を奪われました。 国による強制的な隔離政策のもと、かつては多くの患者が自宅から無理やり連れ出され、家族から引き離されて療養所に入所させられました。療養所では退所も外出も許可されず、療養所での作業を強いられたり、「懲戒検束」と呼ばれる裁判を経ない収監罰を与えられたり、結婚の条件に断種や堕胎を強いるなどの人権侵害が行われた時代がありました。 また、ハンセン病であることを隠して療養所の外で暮らしていた人々も、差別や隔離を恐れ、適切な治療を受けることができないなど大変な苦労をしました。 Q13患者の家族はどのような被害を受けてきたの? A結婚や就職などで差別を受けました。 ハンセン病の患者本人だけでなく、その家族たちも周囲から厳しい差別を受けました。当時、患者の強制的な入所や住んでいた家の消毒などが行われたことで、周囲の人々は恐怖心を植えつけられ、患者とその家族への差別意識を生んだと考えられています。家族は近所づきあいから疎外され、結婚や就職を拒まれたり、引っ越しを余儀なくされたりすることも少なくありませんでした。 Q14患者は病気が治癒しても療養所を出られなかったの? Aいいえ、自ら退所する人もいました。 昭和22年(1947年)から日本でもプロミンの使用が始まり、そのほかにも各種の治療薬が普及していったことで、患者の多くが治癒するようになりました。「らい予防法」(「癩予防法」を昭和28年に改正)は変わらず存続し、明確な退所規定もありませんでしたが、なかには自主的に退所する人もいました。 しかし、療養所の外では退所者への生活支援はなく、ハンセン病患者・元患者に対する差別や偏見も根強く残っていました。生活苦の果てに体を壊し、病気を再発させて、やむなく療養所に戻る人も少なくありませんでした。 Q15現在の入所者の方々はどのような状況にあるの? A多くは高齢や障害などのため、自活は困難です。 「らい予防法」がようやく廃止されたのは平成8年(1996年)のことでした。これにより、国の隔離政策は改められたものの、療養所入所者の多くはすでに高齢となっており、ハンセン病の後遺症から重い身体障害をもつ人もいて、社会復帰して自活することは困難です。 また、いまなお社会に差別や偏見が残ることから、療養所の外で暮らすことに不安を感じている人もいます。 現在の療養所入所者数は計4090人。平均年齢は約75歳です(平成14年5月1日現在)。 Q16療養所を出て、故郷に帰る人はいないの? A社会的な偏見もまだあり、故郷に帰れる人は少数です。 高齢や体め障害、周囲の偏見などを乗り越え、療養所を退所して社会復帰した人もいます。しかし、その数は決して多いとはいえませ また対処しても故郷に戻れるとは限りません。 かつて、家族に迷惑が及ぶことを心配して本明も戸籍も捨て、故郷では死亡したことになっている人もいます。そのため、現在も故郷に帰ることなく、肉親との再会さえ果たせない人もいます。療養所で亡くなった人の遺骨の多くが、いまも実家の墓に入れないまま各療養所内の納骨堂に納められています。 Q17問題解決のために、どんなことが行われたの? A「らい予防法」違憲判決後、謝罪と補償が行われました。 平成10年(1998年)7月、ハンセン病の元患者たちが熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を提訴しました(翌年には東京と岡山の地裁にも提訴)。13年(2001年)5月に熊本地裁は原告勝訴の判決を下し、国は控訴せずに判決が確定しました。 これを受けて、国は療養所入所者など患者・元患者に謝罪し、新たな補償制度や、療養所退所者のための給与金制度を設けました。さらに、ハンセン病問題に関する事実検証、患者・元患者の名誉回復、社会の差別や偏見を解消するための啓発活動も進めています。 ハンセン病の関連年表 明治6年(1873年) ノルウェーのアルマウエル・ハンセン医師が「らい菌」を発見。 明治8年(1875年) 後藤昌文医師がハンセン病の初の専門病院「起廃院」を設立(東京・神田)。 明治22年(1889年) フランス人のテストウィド神父が復生病院を設立(静岡県御殿場市)。 明治30年(1897年) 第1回国際らい会議で「感染症」と確認。 明治40年(1907年) 「癩予防ニ関スル件」が制定。浮浪患者の収容を開始。 明治42年(1909年) 公立療養所を開設(全国5か所)。 第2回国際らい会議で感染力の弱さを確認。 大正5年(1916年) 療養所所長に「懲戒検束権」を付与。 昭和4年(1929年) 「無癩県運動」が一部の民間運動から始まる。 昭和5年(1930年) 初の国立療養所「長島愛生園」が開園(岡山県)。 昭和6年(1931年) 「癩予防法」が制定。在宅患者の強制隔離を開始。 昭和15年(1940年) 厚生省が「無癩県運動」の徹底を通知。 昭和18年(1943年) 治療薬プロミンの有効性が確認される。 昭和22年(1947年) 日本でプロミンの使用が始まる。 昭和23年(1948年) 「優生保護法」の対象にハンセン病患者が加えられる。 昭和25年(1953年) 「らい予防法」が制定。 昭和35年(1960年) WHO(世界保健機関)がハンセン病患者の差別法撤廃と外来治療を提唱。 昭和63年(1988年) 岡山県の長島に「人間回復の橋」が開通。 平成5年(1993年) 高松宮記念ハンセン病資料館が開館(東京都東村山市)。 平成8年(1996年) 「らい予防法」が廃止。 平成13年(2001年) 「らい予防法」遺憲国家賠償請求訴訟で熊本地裁が原告勝訴の判決。 内閣総理大臣談話。 衆参両院で謝罪決議。 厚生労働大臣・副大臣が各療養所を訪問し謝罪。 平成14年(2002年) 新聞紙上に厚生労働大臣名の謝罪広告を掲載(3月23日と5月30日)。 |