セクシュアルハラスメントについて |
篠山市同教企業教部会研修会 2003.11.10 |
■関西大学人権問題研究室研究員 源 淳子 氏
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はじめに 大変お忙しいなか、貴重な時間ですので、是非大事な問題をみなさまと一緒に考えたいと思っております。社会のなかから、職場のなかから、セクシュアルハラスメントをなくすために、是非とも多くの人にセクシュアルハラスメントとは何かということをわかっていただきたいという願いがあります。そして、根絶したいという思いがあります。いま、司会の方からご説明がありましたが、1時間程度お話をさせていただき、その後、グループに分かれて議論をしていただき、全体会でどなたか代表に発表していただくというようになっています。どの方も発言され、言葉に出して、セクシュアルハラスメントの問題を我がこととして考えていただきたいと思っています。 まず、みなさんへの問題提起なのですが、なぜセクシュアルハラスメントを学ぶのかということです。それはセクシュアルハラスメントをなくしたいためなのです。人権侵害が起こらないためにということなのです。では、なくすにはどうしたらいいのかということで、こういう機会を設けて考えていただければと思うのです。 大学でよくいう例なのですが、ここは会社、職場なので、職場ということでお話させていただきます。 セクシャルハラスメントって Aさんを男性、Bさんを女性としましょう。職場にサークルがあると考えてください。同じ会社の二人は同僚として、サークルに入っている。そのサークルでコンパがありました。コンパですから、二人とも少々お酒が入っているわけですね。帰る道すがらが、Aさんの所の方が遠くて、Bさんの方が近い。そして二人とも一人で生活をしているという関係です。AさんがBさんを送って行くことになりました。二人で歩いている時に、男性のAさんが冗談っぽく、「部屋に上げてよ」と言いました。女性であるBさんが、「変なこと考えてるんとちゃうやろな、やめてよ」と軽く答えました。そんな話をしながら歩いていたら、サークルの話で二人は盛り上がりました。Bさんのマンションの近くまで来た時には、サークルの話がとても盛り上がっていました。Bさんは彼に向かって「コーヒーでも飲みながら、話していく?」と誘ったのです。誘われたAさんは彼女の部屋に上がりました。彼女はコーヒーの準備をしています。コーヒーの準備をしている彼女の後ろ姿に向かってAさんは抱きついたのです。抱きつかれたことによって、彼女は驚いて声も出なかったのです。もみ合いながら、最終的にはレイプにはなりませんでしたが、そのあと彼女はどんな顔をして会社へいっていいかわからなくなりました。当然サークルは辞めることになりましたが、働いている関係上、会社を辞めるわけにはいかないので、心のなかではいろいろなことを思いながらも会社へ行かなければいけない彼女の姿がありました。 この話で、もしあなたが、女性であるBさんから相談を持ちかけられた時に、どんなふうに答えますか、という問題です。会社へ行きにくいというBさんに、どんなふうに答えますか。簡単でいいですから、女性から相談を受けた時にどう答えるかということだけを手元の紙に書いていただけますか。何でもかまいません。難しく考えないで、私の話をお聞きになって、スッと思ったことを書いていただきたいと思います。よろしいでしょうか。 話を進めてまいります。自分がどう考えているかということに向き合って欲しいためにそういうふうにさせていただきました。これは、あるカウンセラーの方が男女一緒の専門学校へ行って、会社ではなく、学校という場所に置き換えて例を出し、すべての学生に、自分が書いたことを発表してもらったそうです。その結果、もうほとんどの学生が、全員といっていいというほどに、「これはセクシュアルハラスメントだ」と答えました。それは、みなさんも書かれたのではないかと思います。今日のテーマがセクシュアルハラスメントですから、それに関係しているだろうということで、「これはセクシュアルハラスメントだ」と書かれたと思います。その後に、これは学生全員が書いたのですが、「Bさんという女性が『コーヒーを飲んでいかない?』と誘って、コーヒーを飲むために家に上がってもらった。だから、セクシュアルハラスメントをした男性のAさんは悪いけれども、部屋に上げたBさんにも問題がある」と学生が答えたというのです。みなさん、自分が書かれたことと比べてください。こういうこと以外のことを書かれた方で、発表してもいいなぁという方はいらっしゃいませんか。後のグループ討議でこの問題に関連づけることがあれば、みなさんでディスカッションしていただきたいと思います。 これは、まさしくセクシュアルハラスメントなのです。最初のところで部屋に上げた女性には何の問題もありません。やった方の男性が悪いのです。とにかく簡単に男性が悪いと書けた人は、セクシュアルハラスメントを理解されているということです。ところが、いま私が言いましたように「上げたほうの女性にも問題があるのと違うかしら」と書かれた方は、ちょっとまだセクシュアルハラスメントを理解できていないのではないかということです。これは男性であれ女性であれ、同じことがいえます。女性だからセクシュアルハラスメントを受ける機会は圧倒的に多いわけですが、女性でさえもセクシュアルハラスメントが何であるかを理解していない人がいるのです。こういう問題をなくすためには、同じように男性も女性も学んでほしいのです。コーヒー=セックスではありません。コーヒーはコーヒーです。セックスは別なのです。 そういう意味で、もう一つの例を挙げます。これは、実際にあったことです。一人の女子学生が下宿をしていました。ワンルームマンションなのですが、ピンポンが鳴って、彼女が出ると、「ガス会社の者です。ガスの点検に来ました」と。小さな窓からその男の人を見たら、きちんと制服を着ていたのです。さて、みなさんが家で一人留守番をするという機会があって、そういう人が来て、見ると制服を着ているという場合にどうしますか。ガスの点検はだいたい台所ですね。その台所に上げるかどうかなのですが、みなさんはどうされますか。自分は、そういうことにはタッチしていないから、家のことは何もわからないから上げないという方もいるでしょう。でも、普通は留守番をしている時に、ガス会社の人が来たら上げると思います。一人で生活をしている彼女もドアを開けました。ドアを開けて部屋に入ってきた男は、ガス会社の人間ではなかったのです。すぐに襲いかかってきたのです。彼女は大きな声を上げ、抵抗をし、男はやっと出て行きました。前の話と同じように、彼女はレイプまではされませんでした。 男が出て行った後、鍵を閉め、チェーンをかけました。彼女は一人でどんな思いでいたのでしょうか。みなさん、そういう思いを想像してみてください。どんな思いでしょう。私はその話を聞いた時に、やはり女性はそのあたりの気持ちがすぐわかるのです。どうですか。襲われかけて、レイプはされなかったけれど、男は出て行ったけれども、一人になって、「怖い、どうしようもなく怖い」。そういう思いが想像できるでしょうか。一人でおれないくらい怖かった。だから友だちに携帯をかけて、来てもらうのです。もちろん女性に。なぜ彼女は親友に電話をかけたかというと、今の話をわかってもらえる人にしか連絡しないというです。彼女の親友に「大変なことがあったから、来てくれる」と電話をかけて、友だちが来てくれました。そして、いまの一連の話を話しました。友人は「わかる。わかる。怖かったやろ。怖かったやろ。そら、あんた一人おれへんわな。怖かったやろ」と言ってくれたというのです。 声に出せない性の被害 ここで終わっていたら、彼女は私にこの話をしていないのです。わかってもらえる人に話をして、彼女はその怖さを共有することができ、セクシュアルハラスメントの内容を理解してもらえたということになるのですが、その後の話があったために、私に話すために来たのです。そのあとの話は、これからお話しするなかで、最後につけ加えていきたいと思います。 女性がセクシュアルハラスメントを受け、性の人権侵害を受けた時、声に出せないのが、性的な被害です。みなさんもカバンを抱えていて、そのカバンを引ったくられたら、男女の関係なく、どの人も絶対に大きな声を出します。側に誰かがいたら、「そいつ泥棒や! 捕まえて!」と言うと思います。しかし、性的な被害を受けたら、外に出て、「あいつ捕まえて!」とはならないです。言えないのです。外に大きな声が出せないというものを作ってきたのです。ほんとうに怖い思いをして、彼女の基本的な人権、安心して生活することが保障されていることから阻害されるという人権侵害が彼女に起こっているのにです。 女性差別への立ち上がり 女性への人権侵害はいつ頃からいわれるようになったかというと、そんなに昔からではありません。1975年にメキシコシティで国連の「国際女性年」という、世界女性会議の第一回目が開かれました。そしてその前に、女性たちが女性の問題を「一人の人間として扱われていない」ということで問題提起をしたことから始まったのです。ということは、1960年代、戦後初めて女性たちが声を挙げたということです。その流れが1979年、『女性差別撤廃条約』を制定しました。それは世界中で、女性差別が社会のなかに存在するという認識だったということです。そして、女性差別をなくそうという確認でもあったのです。それを日本はいつ批准したかといいますと、1985年です。ちょっと遅れています。それでも日本で、女性差別が社会のなかに存在するから、なくしていこうということで、取り組んでいかなくてはいけないということになりました。 もうひとつ、「女・子ども」というかたちで一括りにされてきた子どもの人権はもっと遅かったのです。それはすぐおわかりのように、子どもは声を挙げにくい。赤ちゃんはもっと声に出せない。子どもの人権がいわれるようになったのは、大人がやっと子どものことを考え出したということで、1989年の『子どもの権利条約』をなったのです。日本が批准したのは、1994年です。非常に遅いですね。 次は、1994年の「カイロ人口開発会議」です。たとえば、男と女がセックスをします。セックスというのは、妊娠する体を持っている女性のほうがリスクを負うのです。とくに、望まない妊娠をする場合があります。個人的に男と女の関係の問題ではあるけれども、もっと広い意味で女性の人権が侵害されているということでは、望まない妊娠を解決するのにはどうしたらいいのか。また、発展途上国では、産まされている女たちがいる。その女性の健康の問題を含めて、「カイロ人口開発会議」が開かれました。リプロダクティブヘルス/ライツ、健康と人権の問題を考える。つまり女性の性と生殖に関する会議が開かれたのです。 1995年、北京で開かれた「世界女性会議」で、初めて「女性への暴力」が問題になりました。この女性への暴力のなかには、当然性暴力も入っています。世界の動きのなかで、女性への人権侵害として、とくに「性の問題」が提起されたのは、1990年代以降です。まだ20年も経っていないのです。やっと女性が、性の侵害を人権問題として捉えて欲しいという声を挙げ始めたのです。 日本の動き それを踏まえながら日本の動きを見ていただくと、1975年が専業主婦率がピークです。高度経済成長のなかで、「男は仕事、女は家庭」といわれて、女性はたとえ高学歴でも結婚したら家庭に入っていたのが、1975年を境にして社会に進出するようになりました。すると、女性が働くということを考えなければいけないということで、『男女雇用機会均等法』ができました。また、働く女性のために『育児休業法』ができました。そして、これまで女性の役割とされてきた家事・育児・介護という問題を女性だけに担わせていいのかという問題提起が、男女ともに家庭科を学ぶという動きになったということです。そして、『介護休業法』もそうです。 1999年、『男女雇用機会均等法』改正の時に初めて、職場の人権侵害であるセクシュアルハラスメントの問題が採り入れられました。そして、政府が考えた女性労働を必要とするということで、『男女共同参画社会基本法』が1999年に決まりました。女性も外に出て働いて欲しいということです。それはつまり、男性が働いてきた男性中心社会を、男女平等にしていこうと目指しているということです。『児童虐待防止法』も、『ドメスティックバイオレンス防止法』も、社会のなかで子どもたちが虐待を受けて、女性が夫や恋人から暴力を受けている問題が社会の問題となり、防がなければいけないという法律として決まりました。しかし、法律が決まったとしても、ほんとうに児童虐待がなくなったでしょうか。そんなことはありませんね。毎日のように報道されるように、児童虐待は行われていますし、夫や恋人からの暴力がなくなったわけではありません。その背景には、女性差別が現実にあるからです。 事業主の責任 そのなかの一つであるセクシュアルハラスメントを問題とした動きは、アメリカの女性解放運動から始まりました。それが日本に入ってきたのですが、1989年に「働くことと性差別を考える三多摩の会」というところが調査しました。すると、70%の女性が職場でセクシュアルハラスメントを受けているという実態が明らかになりました。1992年には、最初のセクシュアルハラスメントの判決が福岡で起こされました。1998年には、人事院による国家公務員に対する調査が行われ、60%の女性がセクシュアルハラスメントを体験しているということでした。これだけ多くの女性が今まで黙っていたということです。セクシュアルハラスメントの被害を受けていても、声に出せなかったということです。それを人権という立場から、人権が尊重される社会を目指し、女性が社会に出て働いてあたりまえというなかで、改正『男女雇用機会均等法』のなかに採り入れられたのです。 つまり、セクシュアルハラスメントは事業主の責任でもあるということです。これ以後、いろいろな会社で、今日の研修のように、セクシュアルハラスメントをなくすために、それは社会の損失でもあり、会社の損失でもあるということで学ぶことになったのです。セクシュアルハラスメントをなくすために、個々に、あるいは会社ぐるみ、組織ぐるみでなくしていこうという動きが日本のなかでやっと出てきたところだといっていいと思います。今年は2004年です。まだまだ対策は順調ではないと思いますし、セクシュアルハラスメントがなくなってはいないと思います。 もう一度みなさんと確認していきたいと思いますが、セクシュアルハラスメントは、レジュメに「就労、就学などの環境においてなされる相手方の意に反する言動で、行為者本人が意図すると否とに関わらず、相手方にとって不快な性的言動として受けとられ、その言動への対応によって相手方に利益もしくは不利益を与えたり、または相手方の就労・就学などの環境を損なうこと」と書いてあります。セクシュアルハラスメントの要件のところにまとめましたので、そこを見てください。一つは、相手の意に反することです。セクシュアルハラスメントは、男性から女性へが90%なのです。被害者は女性のほうが多いのです。あとの10%が同性間または女性が加害者ということです。男性も被害者になり得るということです。まず、相手の意に反することですから、相手の意に反すること、不快だと思うことはセクシュアルハラスメントになるわけです。イジメとか暴力と違うのは、次に、性的な言動があることです。性的に関係する言動を含んで、相手が不快に思うことが、セクシュアルハラスメントなのです。三つ目には、会社でも、あるいは学校でも、先生が生徒に、大学の教員が学生にという時には、力関係を利用すればもっと起こりやすいということですね。先生が子どもに「あんたの成績を云々するから」と言ったら、生徒は「イエス」と言わざるを得ない、応じざるを得ないというところがあるわけですから、力関係を利用したらもっと起こりやすいのです。でも、同僚間でも起こりうるということでいうと、@「相手の意に反すること」。A「性的な言動であること」が、セクシュアルハラスメントです。 好きとセクハラの違い 昨日も学生にセクシュアルハラスメントの講義をして、そのあと質問が出ました。どんな質問かというと、「基準を決めてください。なかなかセクシュアルハラスメントが理解できない」というのです。セクシュアルハラスメントとは、相手が不快に思うことでいうと、自分のなかに何が問われるのかということを反問しないと、セクシュアルハラスメントとは何であるかということが考えられないと思うのです。 わかりやすく説明しますと、人間というのは性的存在であり、誰かを好きになる存在です。出会った時に一目惚れをしたりとか…。いろいろな意味で誰かを好きになることができるのです。そういう意味では素晴らしい存在だと思うのですが、その性的存在のなかで、男が女を愛する、女が男を愛する、男が男を愛する、女が女を愛する(いわゆる同性愛も含めて)、すべての人が誰かを好きになるという時、男と女という関係で考えますと、男と女の関係は対等です。肩書きとか年齢は関係ありません。上司を好きになってはいけないということはありません。上司と部下の恋愛関係は成り立つということです。相手を好きになるというのは、一人の人間として認められます。そして、誰かを好きになることができる人間は、自分をほんとうに大事にしているということです。私が大事だから、私が好きになる相手も私のほうに向いて欲しいと思うわけですよね。だから、一生懸命アプローチするのです。恋愛というのは、不思議なことに一緒にパッと好きになるというのはなかなかあり得ないですね。一方が好きになって、その人に対して「こっち向いてよ」ということです。「こっち向いてよ」ということは、女からもあり得るし、男からもあり得るわけです。それは、やはり「私を大事にしている、人を好きになる私はこれだけ大事な人間である」ということが出発点にあると思うのです。だから人を好きになり、好きになった人が自分のほうを向いてくれたならば、大事にしようと思うわけですね。人間の基本ですよね。それは、すばらしいと思うのです。 そのこととセクシュアルハラスメントとはまったく違うのです。なぜか。相手を大事と思っていない。相手をほんとうに好きではないということです。相手を下に見ている。もう一つは、性的に見ている。この関係のなかでセクシュアルハラスメントが起こるのです。なぜ、こういう関係が社会のなかで、あるいは個人のなかで起こるのかというと、長い歴史のなかで、男が女をどう見てきたかという歴史があるからです。支配しようとし、その支配する機能や力のなかに性もあったのです。例えば、こういう言葉がありますね。性の関係を持った時に、「俺の女になった」。ほんとうに対等で相手が好きで関係を持ったならば、相手のことを「俺のものになった」とはならないのです。ところが、社会で作られたなかに、セックスをした相手は「俺のものになった」として使われてきました。それは所有ですね。自分の下に置いたのです。そういうことを社会は認めてきたから、セックスをしたことによって、女の人のなかにも、「私は彼のものになった」という人がいるのです。それは、女の人自身が自分を下に見られてきた歴史を、そのまま受け取ってきたからです。セックスをしても、相手と私は対等な立場なのです。「相手を大事にする」ということが恋愛関係のなかにはあるわけですから。 しかし、アプローチしても、いくら好きになっても、人間のことですから、相手が応えてくれない時があります。それが失恋です。何回もアプローチして、でも、「ダメ」、「NO」といわれた。それは失恋です。そして、相手が「NO」と言ったにもかかわらず、しつこくつきまとうのが、ストーカーです。だから、男も女も、ストーカーの犯人になり得るのは、相手の気持ちを無視しているということです。私がどれだけ相手を好きになったとしても、相手が自分を好きになってくれない時は仕方がないわけです。悲しいけれど諦めるしかない。それを諦めない時にストーカーが起こるのです。 恋愛関係とセクシュアルハラスメントは、絶対的に大きな違いがあるということです。セクシュアルハラスメントは相手と対等ではなく、相手を下に性的に見ているのです。女が男をセクシュアルハラスメントするときも同じです。女は男を下に性的に見て、モノとして見て、一人の大事な人間として見ていないということです。下と思われた人が不快に思うのは、相手の男、相手の女がどういう考えをしているかということがわかるから不快に思うのです。だから、セクシュアルハラスメントについてのマニュアルのような基準はないということです。 例えば男性が、「私は女をどう見ているか」という問いかけは自分にできるはずです。女性も、「私は男をどう見ているか」、「女だから男を立てなければ」と考えている人は、セクシュアルハラスメントに遭ったときに不快に思わないかも知れません。お尻を触わられたり、「あなたの胸、大きいね」と言われて喜ぶような女性は世のなかにいます。その女の人は、「男と対等であり、一人の人間として私を大事にしようと考えていこう、関係を作っていこう」と思っていない人ですね。やはり、「女は下が良いわ。会社のなかであれば、お茶汲みだけで結構です。女は仕事ができませんから」というような女性は、まだまだ多いです。セクシュアルハラスメントは、けっして対等ではないなかに、そして相手を下に性的に見ているなかで起こっているのです。男の人も、女の人も、「相手を下に性的にモノとして見る」、そういう人間が私を大事にしているはずがないということですね。セクシュアルハラスメントを受けた人が不快に思う時に、「こんな男にこんなふうに見られたのか。いやだなあ」となるわけです。男の人もそうですね。「こんな女に、この大事な私が、こんなふうに見られたのか。いやだなあ。不快だな」となるわけです。嫌な目つきで見られたときに、「あんな人にこんなふうに見られているのか。私は大事な存在である。この私の大事な存在を傷つけられることがあってはならない」となるわけです。 こんなことが、セクシュアルハラスメントのなかにあるのですということをいちおうレジュメに挙げました。見てください。「こういうものがセクシュアルハラスメントなのだなぁ」、「こういうことをしなかったらいいんだなぁ」と考える人は、セクシュアルハラスメントがまだまだわからない人だと思います。こういう「種類」が問題ではなくて、関係性のなかで相手をどう見ているのか、自分をどう見ているのかということが大切なのです。 セクシュアルハラスメントが起こる背景 セクシュアルハラスメントが起こる背景をレジュメに書いていますが、これこそが社会に存在する性差別なのです。個人の問題だけではないということです。個人の一人が女をこのように見ているということはあり得ますが、でもそれを許してきた社会はどういう社会かというと、性差別の社会だということです。性差別を認めることがセクシュアルハラスメントも認めることになるし、セクシュアルハラスメントをする人は性差別者であることも事実だということです。それが、レジュメに書きました性的な不平等ということを表しています。 次に、性的な不平等のなかにある経済的な不平等です。女性が職場のなかで男性と対等に横並びに働きたいと思ったとしても、公務員を除く多くの企業や会社には賃金格差がまだまだあります。男性を100%としたら、女性は60%です。こういう賃金で、女の人が男性と同じような意識で働けるでしょうか。今日は男性の参加が多いですから、「もし自分が女だったら」と逆を考えてください。同期で入社しても、男性は賃金が上っていき、順番に昇進していき、きちんとした仕事が与えられ、会社で認められる。でも一方で、女性は一緒に入ったにもかかわらず、賃金は据え置き、昇進もそうです。同じ年で同じように仕事ができる人の場合、どちらを先に昇進させるかというと、まだ男性ですよね。女の人にとって、「なんで」となるわけです。自分の性と男女を逆転して考えてもらえばすぐわかります。やる気があって、仕事をしたいと思うのに、どうして女性の昇進が阻まれるのかということになります。会社に入って、ほんとうに男性と同じ一人の人間として、働く労働者として考えられていないのです。「男とは、女とは」というふうに考えられている社会が性差別社会であるということです。会社に入って仕事が同じようにできる人で、差別なく、性差の関係なく昇進していくという社会であるならば、女性たちは今以上に働く意欲をもつと思います。しかし、同じように働いても給料はこれだけしかもらえなかったならば、女性は働く意欲を失っていくというのは、みなさん働いておられるから、よくわかると思います。女性も男性も、働く一人の人間として考えていく社会を作っていかないと、セクシュアルハラスメントはなくならないのです。つまり、今はまだ性差別が厳然としてあり、それがセクシュアルハラスメントの起こる大きな背景のひとつです。性差別である賃金格差があり、昇進も不平等さがあるというものが相乗的に作用することになっています。 性別役割分業 次に大きな問題は、性別役割分業の意識に基づくものです。つまり、男と女というのは、生まれたときに決められていくのですが、男と女が結婚し夫婦となる時、男性は公領域(男性の役割として担う)を、女性は私領域(女性の役割として担う)を担うとして作られてきたものを性別役割分業といいます。私は女に生まれてきたかったから女に生まれてきたのではありません。みなさんも、そうだと思います。性は自分で決定できないにもかかわらず、「男と生まれたなら男性役割を果たしなさい」、「女と生まれたからには、女性の役割を果たしなさい」。つまり、「男性は仕事、女性は家事・育児・介護」という役割分担ですね。これを男性も女性もあたりまえに担ってきました。「男に生まれたから働いてあたりまえ。妻子を養ってあたりまえ。それが男だ」と。すると、男性役割というのは男性に「働いて一人前、仕事がきちんとできて一人前」という「男らしさ」が求められてきました。男性はそれを内面化し、「自分は男だから、がんばらなくちゃ。どんなことがあっても、がんばらなくちゃ」となってきたのです。そのがんばりが、英語圏でも通じるようになった「過労死」を生み出したりしたわけです。そしてこういう時代になって、「明日から、あなたはいらない」とリストラされた時に、「自分の居場所がない、誰にも救ってもらえない、妻にも言えない」ということで、中高年の自殺が多いのも関係していると思います。「男はこういうものだ」という男性役割を男性も担ってきたし、そのしんどさが男性のなかにもあると思うのです。 一方、「女性は家事・育児・介護するのがあたりまえ、料理ができてあたりまえ」という考え方が作られてきたので、女性はこれをあたりまえにしてきました。でも今、この性別役割分業(意識)は問題があるとされているのです。性別役割分業を問うことは、「ひとりの人間としてどんな生き方がしたいのか」、「どんな関係が持ちたいのか」ということを考えることにつながっているのです。結婚してもとも働きをするようになり、外に出て働く時に、家のことをどうするかという問題が起こっています。性別役割分業は、ほかの差別にはない非常に見えやすい、わかりやすい問題です。女性が家事・育児・介護をこれまでやってきたけれど、外に出て働いたら、男性が働くのと同じように責任をもって働くということが起こってくるのです。では、家事・育児・介護は誰がするのか。 今のままでは妻が二重に労働しなくてはいけなくなるのです。実際、とも働きの人で家事にかける時間は、ウィークディでは女性が男性の6倍です。それは、不平等ですね。みなさん、すごくわかりやすいでしょう。妻は専業主婦だという方がいらっしゃると思うのですが、自分の子どもさんを考えてみてください。夫婦が働いてあたりまえという時代になっているのではないでしょうか。男性一人の働きでは、今の生活の豊かさを維持できないということになってきたら、二人で働いてあたりまえとなるわけです。そして、女性も働くようになって、一人の人間として、労働者としてという意識に変わっていきます。そこで、女性に担わされてきた家庭の仕事をどうするかということです。女性が結婚してしばらくすると、「こんなはずではなかったのに」という気持ちになるのは、ここなのです。少子化の問題でも、一人子どもを産んで、母親だけが見なければいけないという時代ではないですね。一人目を産んで、夫が子どもに関わる時間があまりにも少なくて、もう二人目は産めないという女性が出ているのです。 男性に私領域に来てくださいというのが、『男女共同参画社会基本法』のねらっているところなのです。男女平等は公領域だけで男女平等を目指すものではありません。私領域でも男女平等を目指しましょう。その格差たるや、家事労働だけで女性が6倍もやっている。それにプラスして育児。これでは児童虐待も起こりますね。女の人のストレス、母親のストレスはたまったものではありません。家に帰ってきて、夫の世話もするなら女性はしんどい。だから、性別役割分業の問い直しは、性差別の社会を是正することにもなるし、セクシュアルハラスメントを起こしていることになっている背景にもなるので、セクシュアルハラスメントをなくすという意味でも、性別役割分業(意識)を変えていきましょうというのです。 公領域で起こっているセクシュアルハラスメントは、会社や職場で、そして学校で起こっています。性別役割分業意識が強い人は、「女は家事をやってあたりまえや」、「育児をやってあたりまえや」、「長男の嫁だったら、介護をしてあたりまえや」という考え方の人が、公領域に女性が出てきた時に、「女はお茶汲みしてあたりまえや」、「コピーとりであたりまえや」というふうになりやすいですね。「女は、お茶汲みしてあたりまえや」というのはまさに性差別で、女性を下に見ているのです。そして、「セクシュアルハラスメントのどこが悪いんや」とセクシュアルハラスメントの意識がないということになりやすいですね。 今日のテーマではありませんが、私領域で起こっている夫から妻への暴力をドメスティックバイオレンス(DV)といいます。家庭でほんとうに妻と夫が対等であったならばDVは起こりません。下に見ているから、支配下に置きたいから、妻を殴ったり、精神的な言葉の暴力をしたり、性的な暴力をしたりということが起こっているわけです。つまり、両方の領域で男女平等の社会を目指したならば、セクシュアルハラスメントもDVもなくなるはずです。でも、まだまだ個人のなかでの意識が、性別役割分業意識を男性も女性も持っているから、なくならないのです。DVをしている夫が、公領域で女性を対等に見ているはずがありません。 セクシャルハラスメント神話 セクシュアルハラスメントについて、男性(加害者)に都合がいいように作られているのが、「セクシュアルハラスメント神話」です。 過敏な反応か? 過敏に反応しすぎている。先ほど言いましたが、「胸が大きいね」と言ったぐらいで、そんなに嫌なのかというのですね。女の人が嫌だと思うこと、されたことに対して嫌だと思うことは、それは過敏でも何でもないのです。私を大事と思うから、その私に対して「被害を与える人、侵害する人」なのです。それは「過敏」ではないのです。 被害者にも隙がある? 被害者にも隙がある。ここが問題なのです。最初の話に戻りますが、「女の子のところにガス会社の人が来て、ドアを開けてレイプされそうになった。友だちの女の子を呼んで、その子にわかってもらった」という話です。親友は、「怖かったやろ、怖かったやろ」という話をして、しばらくして落ち着いてきたときに、親友が「でもな、ドアを開けたあんたにも問題があるん違うん?」と言ったのです。先ほどのコーヒーの話もそうです。セクシュアルハラスメントを受けた女性が、「部屋にあげたあなたにも問題があるのと違うん?」と言ったことなのです。だから私のところに言いにきたのです。セクシュアルハラスメントを受けた人が誰かに言うのは、わかってもらえる人にしか言わないのです。みなさんもそうだと思います。しんどいことがあって、このことを相談したいと思う時、そのことをわかってくれる人に言いますよね。最初からこの人はわかってくれないという人には相談しません。それが人間関係ですね。彼女は友だちにわかってもらえると思って言ったのです。わかってもらったのです。でもそのあとに、「ドアを開けたあんたにも問題があるのと違うん?」と言われて、「アッ、この人わかってなかった」ということですね。それで私のところへ言いに来たのです。私がセクシュアルハラスメントの講義のなかで、被害者から相談されたら、「それはあなたが悪くない」ということを言わないといけないという話をした後だったのです。授業が終わって、私のところへ来て、「先生、友だちがこんなでした。『あんたにも問題があるん違う?』と言うんですよ。先生、私悪くないよな。先生、私は悪くないよな」と、何回言ったと思います。何度も何度も言いました。そうです。彼女は何も悪くないのです。入って来てやったほうが悪いのです。だから、「そうや。あなたは悪くない」と。それを彼女は私のところにわざわざ言いに来たのです。親友である友だちにさえわかってもらえなかったのです。同じ性をもつ女性にわかってもらえなかったのです。 学生がセクシュアルハラスメントの被害にあった時、お父さんやお母さんには言っていません。「お父さんやお母さんには、わかってもらえない」と思っているからです。子どもが被害にあった時もそうです。だからお父さん、お母さんがまず理解があるということを子どもにわからせないと、子どもは被害に遭った時に言えないですね。夏にミニスカートをはいて、肌をたくさん出した女の子がセクシュアルハラスメントや痴漢に遭ったりすると、「そんな格好をしているあんたが悪い」と言われるのです。しかし、「それは違う」ということをわかってもらえるでしょうか。冬になって、たくさん洋服を着ている時期でも、セクシュアルハラスメントはあるわけです。洋服が関係して、セクシュアルハラスメントや痴漢が起こるわけではないということです。女をどう見ているかによって、時期や季節には関係なくセクシュアルハラスメントは起っているのです。どんな場所にどんな洋服を着ていくかという問題は、マナーの問題として別のこととして考えなくてはいけないと思うのですが、服装が直接的にセクシュアルハラスメントとは関係ないということです。 いや! やめて! は拒否ではない? さらに、女性の「イヤ」、「ヤメテ」は拒否ではないという「神話」です。アダルトビデオなどで作られていて、「女は最終的にはセックスしたら喜んでいる」と思われているのです。子どもが言おうが大人が言おうが、誰が言っても「NOは、NO」なのです。それが、きちんと認識されていないということです。女の子が「NO、NO」、「イヤ、イヤ」と言っても、「あんなのは、ほんとうのイヤと違う」となっているのです。それも作られているのです。自分の心と体を大事にするということが出発点にあって、それに被害を及ぼすようなことがあれば、どの人も「NO」と言える。そして、誰が「NO」と言っても「NO」は「NO」なのだということを作らないといけないのです。いい加減な態度を示さないということも大事だと思います。そして、その「イヤ、イヤ、止めて」と言う時、次の「レイプ神話」につながっているのです。 早稲田大学の事件がありました。早稲田大学の学生が中心になって、集団レイプをしていたのです。最後の女の人が声をあげたから犯人が捕まったのです。それまで、その犯人たちは何人かの女性をレイプしていたのです。捕まった時に彼らは何と言ったと思いますか。「合意の上だった」といったのです。女の子はレイプされたから告発したのです。レイプされた女とレイプした男が合意の上だったのでしょうか。男にとってはセックスだったのです。しかし、女にとってレイプだったのです。このギャップは大きいです。男に加害者が多いということは、セクシュアルハラスメントをした者は、被害者の気持ちに思いを致すということは難しいということです。そして、性の被害を受けたら声が出せない。その事件で被害者になった多くの女性は、黙って生活をしているのです。「私はセクシュアルハラスメントに遭った」という顔をして学校や職場に行ったりしていません。性の被害を受けた人は、むしろ、「わからないように」、「知られないように」、普通の顔をして学校や職場に行っているのです。みなさんの職場にも、もしかしてそういう人がいるかも知れないのです。傍からは見えないのです。でも、その人はどんな気持ちで会社に行っているのでしょうか。学校だったら休んでも大丈夫というのがあるかも知れませんが、仕事は休めない。被害者は、「また相手が何をするかわからない」という気持ちで会社へ行っているでしょうし、やった人は、そんなことを思いもしていない。でも、被害者の心のうちは、傍からは見えない。それは、被害者がそんな素振りを見せないからです。DVもそうです。妻が夫から殴られて、「夫から殴られています」と世間に言いますか。あたしの恥は夫の恥、夫の恥は家の恥として隠しています。だから、それをいいことに、「この人は言わない。そしたら、もっとやってもいいんだ」と、犯人(加害者)は図に乗るということです。そういう社会を私たちは許してはいけないのです。では、私たちはどう対応するかということになるのです。 賠償金目当て? やっと、被害者である女性たちが声に出すようになり、裁判をするようになっているのですが、「賠償金目当てで裁判をやっている」とか、「報復に違いない」ということもいわれています。それはどんな事件もそうなのですが、訴えている人たちは、自分の人生を元のところ、被害に遭う前の、セクシュアルハラスメントを受ける前の私に返して欲しいのです。でも、戻らないのです。だから、被害者が、自分自身を取り返すために、自らが立ち直るためにという形で裁判を行うのです。加害者がはっきりするということは、立ち直ることができる力になるということです。公害の問題でも、被害者は自分の元の人生を返して欲しいのです。子どもを亡くしたお父さんやお母さんは、子どもを生き返らせて欲しいと思うわけです。性の被害に遭った人も同じです。元の人生に返して欲しい。でも返らない。だから、お金で賠償するしかないということになるのです。 男性は被害者にならない? 男性が被害者にならないというのも「神話」、嘘です。男性も被害者になっています。女性が声をあげられるようになりましたが、女性の被害者に比べて男性は数が少ないがために、女性よりもっと声に出せません。被害に遭った男の人たちは、その心の傷を抱いたままの人が多いと思います。 これはレイプされた男性の話ですが、大学4回生の大阪の男性です。淀川を歩いていて、見知らぬ人に公衆便所に連れ込まれてレイプされたのです。彼は誰にも言えなかったのですが、一人の親友には言っていました。もちろん親には言っていません。4回生が終わって東京で就職したのです。事件から1年経ったころ、乗船記録のある大きな船に乗って、降りてこなかったのです。つまり、自殺しました。お父さんやお母さんは、息子が何で自殺したのかわからない。つき合っていた彼女がいて、遠距離恋愛になったけれども、「クリスマスには会おうと約束していたのに、どうして亡くなったのかわからない……」と。彼の友人は、彼と時々携帯で電話をしているなかで、彼が「しんどい」と言っていたというのです。やっぱりレイプを思い出し、レイプから立ち上がれなかったのです。彼の友人は、「友だちの自殺はレイプが原因だ」と自分のお母さんに言ったのです。そのお母さんが私に話をしてくれたのです。その子の人生はそこで終わったのですね。レイプされること、性的な被害を受けることは、男でも女でも、生きることが奪われていくことに近いことなのです。実際生きることをやめる人もいます。そういう大変なことが身近なところで起こっているのです。 会社のなかで起こるのは、見知らぬ人ではなく、知った人との関係で起こります。学校のなかで起こるのも、知った先生が相手です。だから、よけいに声が出せない。言えない。知らない顔をしている。普通の顔をして会社や学校へ行っているということが現実です。 セクシュアルハラスメントをなくすために 性差別をなくすというのが大きな目標なのですが、法律が決まってもそう簡単になくならないのです。誰が被害に遭うかわからない時、万が一被害に遭ったならば、誰に言えるかですね。私は、みなさんに相談相手になれる人になって欲しいと思うのです。そういうことができるには、人権問題を学んで力をつけておかないと相談相手になれないのではないかと思うのです。なぜ、このよう思うようになったかといいますと、今年前期の授業で出会った男子学生の話がきっかけです。女の子が二人レイプされたのです。その二人は、レイプされたことを彼に言っているのです。一人は、見知らない男。もう一人の子は先輩からです。自分のことに置き換えて考えてみました。私は今50代の後半ですが、もし20歳頃にレイプされ、その時、つき合っている彼がいたら、私はきっと彼には言わないだろうなと…。40年前はそんな時代だったろうと思うのです。「今の子は、言うのだ」と思ったのです。逆にいうと、「SOS」をちゃんと彼に出して、「彼はわかってくれる」と思ったのです。親には絶対言っていないのですが、彼には言っているのです。 言われた彼が二人とも、「何と言っていいかわからない」「どうしていいかわからない」と、オロオロしているだけなのです。信頼され恋愛関係にあって、彼女が彼に言ったということは、「彼に言ったら大丈夫」という思いがあるから、レイプされたという大変なことを言ったのです。でも、言われた本人がオロオロしているだけなのです。その二人の男性を見て思いました。言われる関係を作っているならば、言われた時に、相談を受けた時に、こんな大変な被害を打ち明けてくれたことにどう対応していくかということです。今日お話したように、ほんとうにわからないと対応ができないということです。だから子どもが親に言えるのは、「親がそれをほんとうにわかっている。お父さんやお母さんに言って大丈夫だ」というのは、子どもが一番わかるわけです。みなさんもそうだと思います。「この人に言ったら大丈夫だ」というのは、その本人が一番よくわかっているのです。時には、今さっきお話したように、裏切られるのです。「大丈夫だろう」と思って言うのに…。 職場で、「上司からセクシュアルハラスメントを受けた」という誰かが、「この人なら言える」という人になって欲しいと思うのです。とくに役職に就いた場合に、そういう人になってもらいたいと思います。上が変われば、職場が変わります。そういう意味で性差別の問題がわかるということ、セクシュアルハラスメントがわかるということは、肩書きに関係なく誰でもいいのです。セクシュアルハラスメントを受けた人が、「この人なら言える」という関係を作っているならば、まず大きな第一歩を進めることができるのではと思います。 まだまだ言い足りないことがありますが、グループ別になっていただきます。セクシュアルハラスメントについて、自分はどんなふうに書いたかというところから始めてくださってもかまいません。自分たちの意識を、あるいはもっと身近なこと、私領域での妻との関係や恋人との関係で、どういう関係を作っているのか、家で自分はこんなことをやっているとか、やっていないということであるならば、それをどう妻に伝えているのか、妻との関係は、あたりまえとしていることなどを話題にしていただきたいと思います。女性問題を学ぶということは、けっして他人事ではなく、自分の身近な問題のところを学ぶということになりますので、いろいろな話し合いをしていただければと思います。何から話したらいいかわからないとおっしゃるグループは、今日最初に私が問題提起した具体例のところからでもやっていただければと思います。では、8名ずつぐらい、3つぐらいのグループを作っていただいて、お互いの顔が見えるように丸くなって、どの方も発言ができるように、25分ぐらい話し合ってください。グループでまとめられなくてもかまいません。そして、どんな話し合いができたかということを発表する方を決めてください。
グループ討議
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