セクシュアルハラスメントについて |
篠山市同教学校部会人権・同和教育研修会 2005.1.28 |
■関西大学人権問題研究室研究員 源 淳子 氏
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はじめに 社会のなかにセクシュアルハラスメントをなくしたいというのが、私のなかに強烈にあります。なぜそう思うのかというと、やはり被害に遭うのは女性の方が多いということです。そして、男性も含めてなのですが、性的な被害にあった人は、声に出せないまま、トラウマを抱えているということです。泥棒に入られて、「泥棒!」という形で警察に訴えるのは、どの人もするのですが、セクシュアルハラスメントやドメスティックバイオレンスのなかでも性的な暴力、そして、児童虐待のなかでも性的虐待を受けた子どもたちは、さらに声に出せないということが背景にあります。それは女性の人権が確立されていないということと、背景に、男女平等ではない社会が現実には存在するということを表しているのだと思いますので、「セクシュアルハラスメントをなぜ学ぶのか」、「セクシュアルハラスメントをなくすには、どうしたらいいのか」ということを問題提起とさせていただきました。 「女性の人権」へのながれ まずレジュメのところに女性の人権、それを問題にする形の世界的な動きと日本の動きを年表風に挙げておきました。20世紀は、「戦争の世紀だった」といわれていますが、もう一方で、弱者である女性とか、子どもとか、マイノリティの人たちの人権を考えるという時代でもあったと思うのです。そのなかで女性の人権をテーマにといわれたのは、年表を見ていただいたらわかりますが、一番わかりやすく考えていただくのは、世の中には「男と女しかいない」という考え方がまずあったのです。そして、「男性には権利があるけれども、女性には権利がない」という時代が自覚されて、男性と共に必要な権利を獲得する運動が起こりました。それは、「労働権」、「参政権」、「教育権」、「財産権」という権利です。例えば、4年生大学に女性は入れないという時代がありました。女性が入れない大学であったならば、その後の人生、労働に関係した場合も、労働の現場で男性がさまざまな労働を選択できるのに女性は選択できない。ですから、男性の生き方と女性の生き方が変わってくるという意味があって、男性が持っている権利を女性も持とうという運動だったのです。ところが、実際に女性も権利を持つようになった時に、すべての権利が男性とともにできたその時に、男女平等の社会になったかというと、そうではなかったのです。 その最初の転機が、まったく個人的な男と女の関係のなかにおける性的な関係を持ったときに男性中心的な性、セックスの関係、一対一の男と女の関係のなかで、ほんとうに対等でお互いを人格ある人間としてきちんと認めた性の関係が持てているかというと、そうではないという告発が女性の側から起こりました。これはとくにアメリカの女性たちが中心になって、男性が加害者、女性が被害者という形で起こってきました。まったく個人的な関係だったわけですね。一人の男と一人の女のセックスの関係のなかに、やはり強者と弱者の構造的な関係があるという告発でした。もうひとつが、「男・女」という自分の選択で生まれて来るわけではないのに、結婚という形をとったり、一緒に男と女が住むというなかで、男性は仕事中心で、女性は家庭中心でという性別役割分業の問題も提起されました。その提起は、「男と女」という二項対立でものごとが考えられていて、男性が加害者、女性が被害者という意識が非常に強かったのです。 1970年代から1980年代に、そういう考え方が日本に入ってきた時、その考え方に私は出会って非常にわかりやすかったのです。私自身が女性であって、結婚もしているなかで、夫との関係を見直す時に、私がしんどい思いをしているという思いがあったのです。たとえば、セックスの関係の時に、「ほんとうに対等であるのかなぁ、ほんとうに私は彼にいいたいことをいっているのかな?」という思いを自分に問い返す時に、非常にわかりやすかったのです。たまたまその当時、私は専業主婦をしていました。家のことは全部私がやらなければいけないと私自身が思っていました。彼が外へ行って働く姿を見て、「なぜ私だけは、家のことをするのかなぁ」という思いもあって、性別役割分業の問題、それから個人的な性の関係の問題を提起された時に、女性としての私自身が、このままの生き方でいいのかなという問いかけがあって、隣にいる夫が加害者で、私が被害者という関係が非常にわかりやすかったのです。 そのわかりやすかった女性の問題を考える考え方が、そのまま停滞しないで成長していったというのが、私はとっても良かったですし、他の差別の問題を考えるというところでもよかったのですが、じゃあ女はいつも被害者かというと、そうではないという考え方です。男性はいつも加害者かというと、そうではないという考え方です。それは、男性も被害者になるし、女性も加害者になるしということです。そういう要素になるものというのが、民族・人種・宗教・文化、そしてセクシュアリティなのです。こういうものによってそれぞれの人の立場がすべて違うということが明らかになり始めました。そうすると、例えば私は日本人の女性ということでいうと、在日韓国朝鮮人問題を私はどんな立場から何を学び、どういう問題があるのかということを、学ばなければいけないということがわかってくる。そして、在日の人たちの問題をほんとうにわかるということはいったいどういうことかという問題提起を在日の人たちから聞き、自分で勉強することができるということです。そんな問題を人権の問題というのは提起してきたのだと思います。 男と女 セクシュアリティの問題でもそうなのですが、セックスの違いによって、「男・女」と分けられました。生まれた時にペニスの有無によって性別が決められるわけですね。いわゆる生物学的性差として、ペニスがあるから男、ないから女というふうに決められます。しかし、思春期になった時に、そのペニスがほんとうに男性のものではなかった(インターセックスという)という人たちも出てきていますし、「男でもない、女でもない」という人たちの存在も考えると、セクシュアリティの問題で、「男・女」という二つだけだというふうにはいえないのです。日本語で性同一性障害(トランスジェンダー、トランスセクシュアルの人)といわれるのですが、生まれたときに男と決められたけれども、3〜5歳ぐらいに、私はこの性ではないと性自認する問題や、逆の性であると自認する人たちのなかには、性を変換する手術をしてまで性を変更して、新たな性として生きたいという人たちも出てきています。歴史のなかでは、「男は女を愛するもの、女は男を愛するもの」という性的指向をあたりまえとしてきましたが、同性に性的指向を感じる人たち、男・女の両性に性的指向を感じる人たち、いわゆる同性愛の人たちも生きています。そういう同性愛の人たちが、私たちの周りに普通に生きているわけです。傍から見てはわからない。男・女というのは、傍から見て違いがわかるのですが、同性愛の人たちは、傍から見て何にもわからないですね。そういう彼ら、彼女たちが、どういうところで悩むかというと、私は大学の授業のなかでこういう問題提起をしたので、何人かの同性愛の学生とも知り合いになりました。彼らや彼女たちに聞くと、まず思春期の前に、初恋をし、誰かを好きになる時に悩むのですね。小学生、中学生の頃なのです。学校のなかでそういう子どもたちが生きていると思うのですが、同性を好きなった時に、彼らは社会で作られたものをもうすでに知っていますから、自分を否定するのです。自分が間違っている。変態だというふうに自分を肯定できない。その子どもたちが、その後ずっと悩んで、誰にも相談できないのです。 らしさとと悩み それは社会が10歳や12歳の子どもに、「男は女を愛するもの、女は男を愛するもの、それが普通だ、あたりまえだ」ということを教えているからなのです。刷り込まれているからなのです。彼らは自分にだけ、「間違っている」、「誰にも相談できない」、「親にもいえない」、「学校の先生にもいえない」、「まして友達にもいえない」ということで悩み始めるのです。中学・高校を経て、ずっと悩んでいて、二回目の誰かを好きになった時も、また同性を好きになって、「オレが、自分が間違っている」と思うのです。それは、異性愛があたりまえだという社会を作っているからです。同性愛の人も、「人を好きになったことはすばらしい。いいことだ」と誰かにいってもらうという社会であれば、悩まなくてもいいのですが、社会はそうではないということです。だから、その10歳、12歳の子どもたちが誰にもいえないという社会を作っていることに問題点があると思うのです。学校の先生にいえない。お母さんやお父さんにもいえない。自分でいえない。「相手はわかってくれないと思っている」ということがあると思います。大学生になった彼らと知り合いになって、何人かがそういう話をしてくれました。だいたい10歳ぐらいから悩んでいて、誰にもいえなくて、黙って隠してきたというのです。 わってもらえない いま大学はセメスター制で、半期で終わるのですが、十数年前は通年制で1年間みました。だからいろいろな話ができたのですが、その頃から同性愛の問題を授業でしていました。あるとき、同性愛の歴史ということで、とくにキリスト教の社会では非常に差別が強いのですが、一方、日本では、僧侶の世界や武士の世界にも同性愛があったのです。しかし、寛容だったかというと、そうではない歴史を持っているわけです。そんな歴史や貴族のなかでの同性愛の話をして、「何が問題かというと、結局は異性愛の人たちが差別してきた歴史があるから、マイノリティの同性愛の人たちが声に出せない」ということを一生懸命講義したつもりだったのですね。次の週に同じ大学へ行ったら、メールボックスに手紙が入っていました。封筒の裏には名前が書いていなかったのです。「何やろう?」と思って開けてみると、最初「僕はゲイです」で始まって、「先生の授業を受けている学生です。先生が同性愛の問題を講義したのだが、先生のいい方は足りない」と書いてあったのです。私はその手紙を今も大事に持っているのですが、そのあとに「友だちが、『ホモ、ホモ』といって、ワハハと笑っているその輪のなかに自分も入っていっしょに笑っている。その自分の気持ちが先生にわかりますか?」と書いてあったのです。もう少し別のことも書いてあって、最後にもう一回、「先生のいい方は足りない」と書いてあったのです。私は一生懸命、「異性愛の人の問題だ」と講義したつもりだったのですが、傍からは誰にもわからない同性愛の当人にとって、「私のいい方は足らないというふうに思えたのだなあ」と思って、それ以後同性愛の人たちの問題、いわゆるセクシュアルマイノリティの人の問題を、学生にきっちりと講義しなければいけないと思って続けています。 そうすると、毎年のように知り合いの学生ができてつき合いが始まり、彼ら彼女たちの悩みを聴くということになりました。全員が私のところに来ているわけではないのですが、ある一人の学生は、10歳頃から悩んでいるといいました。だいたいどの学生も、8〜12歳の頃から悩んでいるという話をして、誰にもいってないという話になるのです。最終的に誰に一番わかってもらいたいかというと、親にわかってもらいたいというのです。しかし、親が一番わかってくれないということを彼ら、彼女たちは知っているのです。「どうして生きようか。どんなふうにしたらいいのか」と相談を受けました。私も人権問題をやっていて、自分もそうだったように何かがあったときにそれを相談する人というのは、どういう人かなと思うと、わかってくれる人にしか話さないということですね。それは人権問題に関わらなくても、大切な人を失った場合、ほんとうに悲しみにくれている場合、その悲しみをどこか共有してくれる人、私の悲しみをわかってくれる人に、そのしんどさをいうはずなのですね。もし、私がその悲しみのなかにいて、その悲しみを喜ぶような人にはけっしていわないと思うのです。そういうことを私自身考えていて、彼らに「あなたがわかってもらえる友達から始めようか」と。カミングアウトですよね。「わかってくれるだろう友達にカミングアウトしたらどうやろう」とアドバイスをして、そういう人たちにいっていくのですね。ほんとうにわかってくれるだろう友達にいうのです。「ほんとうにわかる、大丈夫」という友だちです。しかし、友だち関係が崩れないこともあるし、なかには、「やあ、そうやったんか。そらわかるけども。だけど、キモイ」といわれた学生がいて、友だち関係が崩れてしまう場合もあるのです。何も変わらない人なのに、同じ人間なのに、「気持ち悪い」といわれて、彼はまた傷ついているのです。そういう彼ら、彼女たちが、何人かわかってもらう人を作っていくなかで、大方の人が、「もういい」というのです。「もうそれ以上はわかってくれる人はいないだろう」といいます。 でも、最後にお父さんやお母さん、つまり、親にわかってもらいたい。なぜなら、将来結婚しないだろうし、子どもを持たないだろうし、将来のことがあるから、自分のこれからの生き方をほんとうに認めてもらいたいから、親にいいたいのですね。そのなかのひとりが親にいったのです。一昨年になるのですが、4年生の夏休みの最後の頃に親にいったのです。「ほんとうに大丈夫なん? いい答えは返ってこないと思うよ」と私はいいました。覚悟を決めて彼がいって、ほんとうにいい答えが帰ってこなくて、私のところにメールで「助けて!」と来たのです。ものすごい言葉をお父さんとお母さんから、とくにお父さんが発したのですね。「お前のような者が、このまま生きていたら、もしも近所にわかったら、自分たちはここに住めない」とか、「出て行け」とか、最後は、「死んでくれたほうがまし」と。ポロポロ涙を流しながら、「先生、親がいう言葉ですか?」というのですよ。彼がどれだけ傷ついたかですね。それで、「もう親は、わからない」と。ある意味で理解があるお父さん、お母さんです。お兄ちゃんがいて、その兄が大学に入ったときにすぐに彼女ができて、そのお家に彼女を連れて来て、一緒にご飯を食べるような家庭だったのです。だから、「彼女ができたら家族ぐるみで晩御飯を食べよう。おまえも大学生になったのだから、早く彼女を連れて来いよ」というお父さんだったのです。でも、思いもしないこと、考えもしないことを息子がいったがために動転されたのだと思うのです。 学ぶということは 「学ぶ意味」というのは、そこら辺にあると思うのです。同性愛の問題がどういう問題であるかということをすべての人が知らないとだめだなあと思ったのです。「わが子はそんなことはない」、「世の中に同性愛の人がいてテレビに出てくるけども、あれは人ごと、他人ごと」と多くの人は見ているのだと思うのです。人権問題が、いつも他人ごとですまさないで、私のこととして問題を考えるということが「学ぶ」というなかにあるのではないかと思ったのです。私のなかに、また身近なつき合いのなかに同性愛の人がいなくても、同性愛の問題はどういう問題であるかということを、まず第一にわかるというところから出発するのではないかと思ったのです。いま彼は親とうまくいかなくて、就職して家を出ています。親と和解ができる時というのは、私はお父さん、お母さんがほんとうに同性愛の問題がわかって、自分の息子を理解することだろうと思っているのです。その学生は好きな人ができてつき合い、わかってくれる周りもできたけれども、ほんとうは親にわかってもらいたいという問題があるのですね。 わかってほしい 別の学生が、「私の授業を使ってカミングアウトしたい」といったのです。「同じ大学に自分のような普通の学生が、同性愛で生きているということを学生に知ってもらいたい」というのです。それで、私に授業を貸してほしいといったのですね。私はすごくうれしくて、「そういうことができるのだったら、どうぞ、どうぞ」といって、「少し演出しよう」ということで、大教室のクラスだったのですが、「私が紹介してから出ておいで」と、後ろのほうに座ってもらったのです。私はその光景を忘れませんが、紹介して彼が後ろから出るときに、みんながどんな思いで見たかというと、普通の人を見る目じゃないのです。「だれが?」「どんな奴がでてくるのだろう?」。ここですよね。そういう目を意識しながら彼は出てきて、20分間ぐらい、10歳ぐらいから苦しんだことかをたんたんと話しました。後、感想文を書いてもらったのですが、その感想文がすばらしかったのです。自分のなかにあった偏見に気がついた。つまり思い込みです。「どんな人が出てくるのだろうと思ったけれど、同じ大学の普通の学生やった」と書いているのがいっぱいありました。それは、自分に振り返って、自分のなかの意識に、そういう同性愛の人に対する偏見があり、同じ大学の学生を見て、「なんや、同じやん」という、それを自分で言葉で表し、「勇気を出してカミングアウトしてくれた何々君に感謝」とか、「勇気を出してくれて、ありがとう」とか、「あんなに勇気を持てる何々君にはがんばってほしい」とか、さまざまに書いてくれました。 その彼が最後に学生に伝えたいこととして、「みんなもお父さん、お母さんに将来なるでしょう。僕は、普通のお父さんとお母さんの間に生まれてきました。将来、みなさんがお父さんお母さんになったときに、もしかして自分のような子どもが生まれてくるかもしれません。その時には、その子どもが同性愛で、同性を好きになったことをいえるような、そんなお父さん、お母さんになってください」といったのです。彼がいちばん悩んでいること、親にいえないこと、それを同世代の若い学生に一番伝えたかったのですね。将来親になったときにわかる親になってくださいといったのです。その話が終わって、ふたりでお茶を飲みながら、こんな話を彼がしてくれました。「自分が同性愛であるということを親に何となくわかってもらいたいから、大学に入ってから3年間ぐらい、ずっと何らかのかたちのメッセージを送っている」というのです。「でも、親って案外子どもを見てないのですね」といいました。何にも気づいていない親だということを悲しい思いで私に伝えてくれました。子どもたちは、直接言葉でいえないこと、それは理解してもらえないだろうと思っていることを何らかの形のSOSを発信しているのですね。その子どもたちを親は思いこみ、偏見、あたりまえという社会のなかで、見ていないということを彼がいってくれました。 私たちのほんとうに身近なところで、もちろん職場のなかにもそういう人たちがいると思います。でも、その人たちは、自分のことを黙っていると思います。ほんとうにわかる人にしか伝えないと思うからです。わかる人が全部であったならば、何事もなく、さりげなく、「私はレズビアン」「僕はゲイ」というふうにして伝えられるのではないかと思うのです。そういうセクシュアリティの問題も、やはり人権問題として、社会のなかに「異性愛があたりまえ」というものを作っているから人権が侵害されたまま、(その侵害を受けた、侵害されたという意識がないでしょうけれども、わりと多くの、いま3%といわれています)そういう人たちが黙ったままわかってもらえないという思いで生きていることだと思います。 セクシュアルハラスメントの起こる背景 今日のセクシュアルハラスメントも、なぜこんな長い話をしたかというと、セクシュアルハラスメントを受けた人も、そのことを「受けました。しんどい思いをしています。つらいです」という顔をして、社会のなかに生きていないということをいいたかったからです。傍からみたらわからないということをいいたかったのです。それでもやっと声に出せるようになった被害者がいるのは、女性の人権が大事だという世界の動きがあり、日本もそれに呼応するように、女性が働いてもあたりまえという時代になってきました。日本では「女子ども」と一括りにされてきた時代があります。子どもたちが、女性よりももっと声に出せなかったということで、子どもの権利条約が決まり、日本も子どもの権利条約を批准し、そして女性たちが被害にあうという問題を法律によって定めていくという動きを資料に挙げました。しかし、法律が決まったから、『児童虐待防止法』が決まったからといって児童虐待はなくなっていません。『改正男女雇用機会均等法』のなかにセクシュアルハラスメントが盛り込まれましたが、セクシュアルハラスメントはなくなっていません。『ドメスティックバイオレンス防止法』が決まり、2004年に改正されたのですが、ドメスティックバイオレンスはなくなっていません。 夫や恋人に暴力を振るわれている女性は、暴力を受けていても学校や職場に行っても、そのことを顔に表すようなことは殆どというか、あるいは一切ないと思います。まして、加害者は加害者の意識がありません。男性の全員が暴力を振るったり、セクシュアルハラスメントをしているわけではないのですが、セクシュアルハラスメントの場合、加害者は90%が男性です。そして、被害者の90パーセントが女性です。今日ここに男性がたくさんいらっしゃいますが、この男性のすべてがセクシュアルハラスメントをされているなどと思いもしません。しかし、少数の人であれ、セクシュアルハラスメントを行っている人がいるということを考えると、その背景にいったい何が存在するかがわかっていただけると思うのです。それは、性差別です。女性差別があるということが、男性に加害者が多いということになると思うのです。 セクシュアルハラスメントはしないけれども、ドメスティックバイオレンス(DV)をしているということがあります。公領域で起こるのがセクシュアルハラスメントです。私領域で起こるのがDVです。セクシュアルハラスメントは公領域で起こってきますので、セクシュアルハラスメントをした加害者が、ほんとうにその意識を持ってセクシュアルハラスメントをするならば、裁判に訴えられたり、自分の地位がなくなってしまうということがあります。だから、セクシュアルハラスメントは極力外(職場のなか)でしないといわれます。それは対象相手が知っている人だからです。「そうではない場所であったならば」ということがあるかもしれません。しかし、そういう人が自分の妻に対して、家庭のなかでほんとうに対等に一人の人間として関係を持っているかというとそうではないと思うのです。セクシュアルハラスメントを行っている男性の意識というのは、男女が対等な関係ではないと意識しているわけです。ほんとうに男女平等の社会、女性の人権が守られる社会というのは、男性と女性が対等の関係を作るということだと思うのです。非常に簡単だと思うのですが、たとえば学校の先生が子どもや生徒にセクシュアルハラスメントをする事件が後を絶たないのですが、「同じ学ぶ場所で学ぶ人」というように考えない人ですよね。電車のなかで痴漢が起こっていますけれど、「電車のなかに乗る人」と考えられない人ですね。職場でセクシュアルハラスメントをする人は、「同じ職場で働く人」というふうに考えられない人ですね。セクシュアルハラスメントをする人は、必ず、そして性的に女を下に見ているということです。加害者に男性が多いのでこう表現しますが、逆もそうです。つまり、相手を支配下に置きたいという考え方があるということです。自分より下に人を見るということは、自分を上に見るということだと思います。それも、性的にということが根本にあるということです。だから、電車のなかで痴漢をするというのは、相手を対等ではなく、同じ人間としてみることができない人なのですね。 男女は対等の人間なのです 長い歴史のなかで、女は「人」として見られて来なかったということがあります。それはあたりまえだったのです。家制度がある頃には、「女は家に嫁に来るもの、子どもを産むもの」という考え方があったわけです。戦争が終わって新民法ができてから家制度がなくなり、女性は一人の人間として認められるというふうになってきたのですが、やはり歴史が浅いのです。今までの長い歴史のなかで、男性中心の社会のなかで、男性が女性をどう見てきたかということを合わせてみると、女性も男性に合わせるものとして作られたと思うのです。逆にいうと、強弱の関係というのは、力の関係で下におかせられるのですが、女は男に合わせてきたというのがあるのですね。夫と妻の関係でもそうです。これが、ドメスティックバイオレンスが起こるときの問題です。夫の気持ちが既にわかっているから、夫に合わせる。夫の力と自分の力を考えたら、自分の位置をどこへ置くかわかっているから、妻が夫に合わせるという関係を、長い間作ってきたのですね。それは加害者意識も被害者意識もないところですね。そういう意識が内面化され、無意識のなかで相手に合わせるという関係が歴史のなかで作られてきたのです。女性のなかに、自分をまず下に置いてみるということをやってきたことと、強い者に合わせるということのなかから、対等な関係を作っていくことの難しさがあるのです。 近代では、日本の男性は男性自身も強いものに合わせてきたわけです。その合わせ方が、命を失ってでもという形で戦争があったわけです。君のため、国のためという時には、私を捨てて、相手のために合わせてきたわけです。それが強弱の関係の構造のなかでは、上の支配下で下の者がいう通りになるということなのです。そういう関係のなかで、男と女というものが作られてきて、女性にとって性別役割分業の問題をどう考えるかという時、「私がしてあたりまえ」というふうに女たちも作ってきたのです。実際、私もそうだったのです。私は、この篠山市よりもっともっと小さな田舎に生まれて育ちました。父親や母親から教えられたこと、学校で教えられたこと、そして地域の関係のなかで、私のなかに無意識のなかに「女とはこうあるべきもの」というのが作られたのですね。「男とはこうあるべきもの」というのがあったと思います。男と女の関係が対等ではなく、相手を下に見るというようなものを作ってきたのだと思います。差別、被差別の関係というのは、差別する側がものすごい力で差別してきたという歴史ももちろんありますが、そうではない場合もあるのですね。自らを下においてきたということもいえるのです。見えない形で強弱が作られ、強者は加害者の意識がなく、支配する力を意識しないで強者の位置にいる。それにあわせて弱者は自分を下に置いてしまって、強者に合わせてきたという歴史が差別の構造的な問題のなかでの難しいところではないかと思います。 リスクを負う女性 関大の学生にアンケート調査をしたときの話です。20歳ぐらいの学生に、「セックスは男がリードするものという考え方がありますけれど、それをどう思いますか?」という質問に「そう思う」、「そう思わない」で答えるものでした。いま、ご自分で考えて下さったらいいと思います。男子学生も女子学生も、学生の半分が、「そう思う」だったのです。「そう思う」、つまり、「セックスは男性がリードするもの」という場合には、女性も「女性はリードしてもらうもの」と考えているのですね。その現実がどういうところに現れているかというと、女の人が避妊もリードしてもらうものというふうになるわけです。セックスに関係することは、やることだけではないわけですね。身体を守ったり、心を守ったり、お互いを大事にしているということも含めてセックスを考えていくならば、避妊もそのうちに入るわけです。避妊も男性がリードするもの、女性は避妊もリードしてもらうものと考えているならば、大事なことがいえない。それで、現実に望まない妊娠をする。そして、中絶が行われているということなのです。 現実に何人かの学生の中絶を知っていますので、恋人に「避妊して」といえない女子学生がいるのです。女も強くなったと思うのですが、そうではない形の傍目には見えない構造的な強者と弱者の関係があって、男と女は生物学的な違い、つまり性差があり、妊娠する身体を持っているリスクを負うわけですね。望む妊娠をするときはいいと思います。しかし現実には、望まない妊娠が多いのです。日本の場合は、中絶が合法化されていますから簡単に中絶ができます。自分の恋人や妻が、中絶するというのはどういう関係かということです。ほんとうに対等であるならば、相手の体と相手の心は私と同じように大事であるはずなのです。きちんということ、そしてそれを理解すること、お互いに話し合うことができていない場合は、社会が作ったものがあるのだと思います。女子学生が強くなったと思うのですが、いまだに妊娠をして泣いている学生がいるのです。男と女の関係のなかで、中絶をする女の人の気持ちを私たちはどれだけ理解できるかということなのですね。私は女ですから、まして学生から中絶の相談やいろいろな悩みを聞いている時に、やはりすぐわかるのです。中絶しなければいけない女の人の気持ちが。でもその時に男の人は、どういう気持ちなのかですね。社会が、「男はセックスをリードするもの、女はリードされるもの」というふうにして作ったそのことをジェンダーというのですね。背景にあるジェンダーというのは、「男はこうあるべきもの。女はこうあるべきもの」ということなのです。 もちろん個人個人によって違うのですが、「男はセックスをリードするもの」と思わない人もいると思います。でも、たった20歳ぐらいの学生の50パーセントぐらいが「そうだと思う」というのは、社会がまさに作ったものだと思うのです。なかには、「わからない」と答えた人もいるので、50パーセントの学生がそういう関係を持っている、あるいは持つだろうということです。別の大学で「自分がいまつき合っている人がいて、避妊はどうしますか? 将来そういう関係を持ったときに避妊は何をしたいと思いますか?」と質問したときに、70パーセント以上が「コンドーム」と答えるのです。日本人全体もそのくらいのデータがあります。しかし、ほんとうにちゃんとコンドームがつけられているのかというと、そうではない現実があるということです。そうすると、それぞれが関係を持つなかでどんなふうに相手を思っているのかという、もっとも個人的な夫婦の関係で、そして親子の関係で作ってきた関係の問い直しを、問題提起をしたのが女性問題です。 どう生きようとしていますか その意味で、女性問題を考えるというのは、非常に大変なことであるわけです。どの人にも通じる問題であって、その意味で主体が問われる問題であると私は思います。男の人も女の人も、主体的にどう考えているかということが問われるのですね。「どう考えていますか、どう生きていますか」ということが問われるので、女性もしんどくなる。女性問題というのは女性の問題なので、女性に「あなたはどう考えますか、どう生きたいですか、どういう関係を持ちたいですか」という問題提起をするために、女性自身がしんどくなるのです。そして、女性問題を自分のこととして引き受ける女性が、一番関係の深い、最も近いところにいる夫に、「あなたはどう考えていますか?」と問題提起するわけですから、男性にとって大変です。すぐに意識が変革できるかというと、そんなに簡単なものではないと思うのです。男性のなかには、そのことがわかって、自分がわかっていこうとしている人も出ています。女性のなかには、「わかるけど、私はそんなしんどいこといや」という人たちもいます。でも、お互いが、すべての人がほんとうに主体的に自分の生き方、関係の作り方を考えていく背景に、「男はこう、女はこう」というふうにして作られたジェンダーを捉えなおしていきませんか、ということなのです。 それを捉えなおしていくことによって、ひとつひとつのテーマがなぜ起こっているのかということがわかり、そしてセクシュアルハラスメントをなくすにはどうしたらいいかということがわかってくるのではないかと思います。それでも、わかったからといってセクシュアルハラスメントがなくなるわけではないと思うのですね。しかし、わかった時にどんないいことがあるかというと、私はセクシュアルハラスメントにあった被害者が自分だけでこもらないで、乗り越えていく力になるのではないかと思うのです。誰かにいって、その問題を乗り越えていくことになったらいいということだと思うのです。それをプロのカウンセリングや精神科医のところまで行かなくても、周りにわかってくれる人がたくさんできること、たとえば子どもが「アッ、この先生だったらわかってくれる」って、その先生のところへ行くでしょうし、職場でなら、この人ならわかってくれるだろう。それは管理職、平、まったく関係なく、男性であろうが、女性であろうが関係なく、この人ならわかってくれるだろうという人に私はいえるのだろうと思うのです。 相談をうけたときに でも、被害者がいわないのは、わかってくれる人がいない、少ないということだと思います。だから、被害をなくそうという方向にはありますが、そう簡単にはなくならない。でも、それをいえる相手がたくさんあればいいなと思います。学生の例を出して申し訳ないのですが、去年そういうなかから私が学んだことを話します。前期の学生のなかに二人の男子学生が、オロオロしています。セクシュアルハラスメントを講義したときに、セクシュアルハラスメント神話、つまりセクシュアルハラスメントが起こるその背景に神話というかたちで嘘ごととして作られたものがあります。これはセクシュアルハラスメントをする側にとって都合がいいものなのですが、ちょっとのことで過敏に女性は反応しすぎるとか、被害者にも隙があるとか、女性の「イヤ」「ヤメテ」というのは、拒否ではないとか、多くは賠償金目当てだと。これは、裁判を起こした時に、賠償金目当てか報復に違いないということです。男性は被害者にならない。こういうのが作られています。だから、もし自分が相談を受けた場合には、こういう言葉を相手に絶対にいってはいけないという講義をしたのですね。相談を受けるというのは、すばらしいことで、あなたはわかってくれるだろうと思ってその人は相談しているのだから、こういう言葉を絶対いってはいけないという講義をしました。 すると、その講義が終わってから、ひとりの男子学生が、相談に来たのです。二人になってから話した彼の話は、遠距離恋愛をしているのですね。その遠距離恋愛をしている彼女が、先輩のところに本を返しに行ってレイプされたというのです。一ヵ月ほどたって、彼女は彼にレイプされたことをいったのですね。それから、彼はポロッと涙を流して、「先生が今日講義したことでいってはいけない言葉を彼女に全部いった」というのですね。「なんで先輩のとこなんか行くんや」「どうして本なんか返しに行くんや」などと。レイプされた彼女が悪いということを全部電話でいったというのです。「先生、どうしよう」って泣いているのです。その話を聞いて、家に帰ってから、もし私が話の通りにつき合っている彼がいて、私がレイプされたら、彼にいうかなあと思ったのですね。まあいろいろ心は動いたのですが、私はいわないだろうと。でも、今の子はいう子がいるのだと思ったのです。そんな話も家で考えながら、自分がレイプされたと彼にいった彼女の思いというのは、やはり信頼しているからいうのですよね。レイプされたという非常に大きなことを彼にいうということは、「大丈夫、わかってもらえる」「私を助けて」というのが、あるでしょう。いろいろな思いがあって、彼にいったと思うのですね。でも、彼は彼女に対して何ひとつ応えてないのです。だから、彼は彼女がいったことに対して、自分がしてはいけないことをいったということがわかって、オロオロしているのです。「どうしよう、どうしよう」となったのですね。彼には、いっしょに晩御飯を食べに行ったりして、いろいろな話をしました。後期も、その彼は私の授業を受けていたので、ずっと経過を聞くことができて、夏休みには彼女と会い、だいぶ関係がもとにもどったようです。 ところが、もうひとりの学生さんはまったく会うことができなかったのですが、前期の試験に解答をまったく書かないで、自分の彼女がレイプされたということを書いていたのです。でも、自分はどうしていいかわからない。自殺さえ考えているということを表裏にザーッと書いているのです。読んだのは夏休みに入った時だったのですが、もうびっくりしまして、大学へ連絡をして、私ができることはしれているのですが、それでも放っておけないと彼の電話番号を聞いて彼に連絡を取ったのです。そうしたら、何もできていないのですね。それこそ、自分がひとり悩んでいるのです。そういう彼の姿を知ったとき、やはり私が学んだのです。レイプされた人、セクシュアルハラスメントを受けた人、そういう人が相談したときに何もできないということは、やはり第二次の心の傷を相手に与えると考えたのです。セクシュアルハラスメントやレイプを受けた人が誰かにいった場合、その誰かになったときにほんとうに対応ができる人になるのには、どうしたらいいのかなということを、私自身が学生の姿から学んだのです。被害はなくさなければいけないけれど、加害者が存在するということは簡単になくならないと思うのです。男女平等の社会が変わらないということだと思いますが、そういう意味で、セクシュアルハラスメントとはどういう問題で、どういう問題を内容として持っていて、それは被害者をどんな思いにさせるかということですね。 加害者の意識と被害者の意識 みなさんの記憶にあると思うのですが、早稲田大学の学生を中心にしたレイプ事件がありました。その被害者の最後の女性が勇気を持って告発したために、早稲田大学の学生を中心にした男性が逮捕されました。その逮捕された後にわかったのは、それまでに多くの被害者がいるのに、その被害者は全員が黙っていたということです。被害を受けたままで生きているということです。最後の女性が勇気を持っていったから、彼らは逮捕されたのですが、逮捕されたときに彼らは、「合意の上だった」といったのです。合意の上であるということは、レイプした犯人はセックスだったという意味ですね。しかし、告発した女性はレイプされたから、告発したのです。この作られた意識というのは、非常に差が大きいのです。加害者・犯人にとって、レイプはセックス(合意の上)であるということは、加害の意識がないということです。しかし、女性はレイプされたという。そのレイプされた日から、彼女の人生は変わっていると思います。心も体も昨日とは違うと思います。でも、犯人はまたできるという加害者と被害者の差を作っているのが、性的な被害を受けたときのセクシュアルハラスメントやDVなのですね。妻が性的な被害を夫から受けたとき、殴られても声に出せないのは、それはもっとも身近だからということもあると思うのです。一番身近な人だから、一番外に知られたくない人だからというのがあると思うのですが、そういう被害を受けたとき、わからないように、知られないようにと、多くの人が黙っているのです。 最初にもいいましたが、職場で加害者はあたりまえの普通の顔をしているのに、被害者はどんな思いで職場に行くのかです。学校の生徒は、あくる日学校へどんな思いをして行っているかです。傍からは見えないのです。しんどいというかたちを出してくれたならば、それは傍からわかるわけです。児童虐待で子どもたちがケガをしているというのは、まだわかりやすいと思います。だけど、そういう被害を受けた人たちが、傍目には見えなくても、本人はどれだけしんどいかということですね。大人ですから、顔に見せないことができるわけですが、見せなくてもそれが続いたならば、必ずや人間の身体です。身体は正直です。身体に何かのかたちで出てきます。私の知っている人は、湿疹ができたり、目眩がしたり、動悸が打ったりという症状が出たといっていました。その現れ方は、みんなそれぞれ違うと専門家はいっています。そうすると、ほんとうにその人にとってかけがえのない人生なのに、加害者のためにかけがえのない人生とは違う人生を歩んでいかされているのです。絶対になくしたいと思うのですが、やはり不平等な社会があるのです。 よく間違えられるのが、早稲田大学の学生がいった「合意の上」ということです。男と女、子どもも含めてすべての人が、誰かを好きになることがあるということですよね。肩書きには関係なく、すべての人は性的な存在であるということです。学校の子どもが先生を好きになることもあるでしょうし、大学生などは、大学の男の先生を好きになるということもあると思うのです。誰かを好きになるというのは、対等で行われなければいけないと思います。その時に、自分の気持ちを伝えたい。そして、相手も自分のことを好きになってもらいたいと思うのが人間です。だから、いろいろなアプローチの仕方をします。でもアプローチをいくらしても、相手が応えてくれない時がある。それが失恋ですね。その時にそれ以上やることが、ストーカーです。人間はどれだけ好きになってもいい。好きになることはすばらしいと思うのです。でも、その思いは相手にすべての場合に通じることはあり得ないことがあるわけです。そう思うと、人を好きになることのすばらしさと、すべてが成就しないという問題のところを私たちは人間として考えなくてはいけないと思います。 人を好きになるすばらしさとそれが思うようにいかないこともあるということを私たちは小さいころから、ほんとうに受けてきたのかなというと、なかなかそうではなかったのではないかなと思います。 人を大事にするのが性教育 次に、性教育をきちんと受けていないということを私は大学生を見ていて思います。バックラッシュの動きが非常にきついですが、そのバックラッシュの動きというのは、はっきりしていると思うのです。男女平等を願わないで、差別のある社会を望むということです。そのなかには、女性もいるわけですから、女性も差別される側でいい思いをしている人たちが、バックラッシュの人だと私は思っているのです。バックラッシュのなかでは女性を性別役割分業のなかで家庭のなかのことをしなさい、男は男らしく生きなさいということをいい、性教育は必要ないというのがバックラッシュの人たちの考えです。そのほうが、ずっとずっと大きな力になっています。学生の状況を見ていると、いつでもそっち側に行く学生が多いように思われます。最初にいいましたが、自分のことを主体的にほんとうにどう考えて、どう生きたいと思っている学生は少ないですから、ダダダッと流れていくだろうなと思われます。そういうなかで、性教育はしなくてもいいという方向があるのです。小泉さんも誰かの質問を受けたときに、「そんなもんは、大人になったら分かります。自分は小さいときに性教育なんか受けたことはありません。大人になったら、分かるものです」という答弁をしていたのです。果たしてそうでしょうか。違いますよね。社会が作ってきたもの、ジェンダーという形で作ってきたものは、男がリードするもの、男にとってレイプしても、合意の上とか、そういうものが作られてきたところを考えると、やはり一番根っこのところで大事にしなければいけない性教育をやっていかなければいけないのじゃないかなと私は思います。 その性教育は、小学校、中学校、高校、大学という学校教育の場で行うことは当然だと思うのですが、もうひとつは家庭のなかですね。家庭のなかと公領域のなかの両方で性教育が行われていかなければいけないし、長い歴史のなかで「性」というのはタブー視されてきました。公に話すことではないとされてきました。こういう人権論、ジェンダー論をやりながら、1980年代の今から20年ほど前ですね。大学生にはじめて「セックス」という言葉を使うときに足が震えました。今は何んともなくなったのですが、忘れもしないのです。男と女の関係を問う問題を大学生にいわなければならない時に、性の関係とかいってごまかそうかなと思ったのですが、それはまずいと思ったのです。だから、きちんと「セックス」という言葉を使っていおうと思ったときに、足が震えたのですね。日本で「セックス」の問題を公の場で、まして学校で、そして家庭できちんと教えなくてはいけないという文化は、作られてこなかったと思います。 でも、現実、今日お話したような被害者が出ている。それも性的な被害者です。性的な被害者は声に出せない。そして、加害者はその意識がない。それを背景に男女の不平等さ、そしてもうひとついうならば、セクシュアルハラスメントや痴漢やレイプをする人はほんとうに自分を大切にしていないということでしょうね。人間関係でほんとうに他者を大事にすることができるというのは、自分がほんとうに大事であるから他者を大事にできるということが基本にあると思うのです。そして、その関係を持つときに、夫婦なら夫婦という関係を持つ時に、ほんとうに相手が大事ならば、その大事な関係を作っていくことができるのだと思います。 NOといえる社会づくり しかし、日本の近代社会は天皇制国家であり、家制度があり、私をほんとうに大事にしましょうという考え方はなかったと思うのです。私をほんとうに大事にするというようにしたら、命が大切であることにつながるし、戦争否定になるので、そんな時代ではなかったわけですから、私を大事にしないことこそすばらしいというのが、近代の時代にあったということです。 戦後の教育のなかで、とくに性教育のなかで、私の心と体とすべての私が一番大事という出発点があると思うのです。そうすると、男性であれ、女性であれ、私の大事な体と心が何かのかたちで傷つけられたり、犯されたりするのは許せないというふうになっていくわけですよね。女性のなかに許せないという思いが、まだまだ弱いのです。これは、相手に合わせているというのがあるからですね。夫がやっても許せない、もちろん恋人がやっても許せない、職場の同僚がやっても許せない、見知らぬ人がやっても許せないというふうになっていないところが、女性がセクシュアルハラスメントを受けても、相手にきちんと、「私はイヤです!」といえないことになるのです。 こんなふうにいっている私自身でさえ、こんな経験をしたことがあります。新快速が滋賀県から姫路まで走っています。朝の10時というのは、滋賀県から来ない京都駅始発なのです。以前に非常勤で行っていました。新快速の窓際に乗ったのです。電車が出発する間際に隣に男の人が乗ってきて、京都駅を出発しました。隣の男の人がスポーツ新聞を開いたのです。夏のことだったのです。この男の人の右手が私の左の肌に当たるのです。まず、気持ち悪いと思ったのですね。最初、ちょっと当たったかなと思ったのです。でも、違うのですよね。「もう、これは、あー、セクシュアルハラスメント!」と思ったのです。「すぐいわなきゃ」と思いながら、すぐ口に出ないのです。その時間は短いのですが、「いって、何されるやろ」「どうするやろ」「どんないい方をしよう」と私はウーッと巡って、すっと声が出なかったのです。結局は、いったのです。相手を傷つけないようにというのがやはりあって、「すいませんが、私に当たらないように、その手を向こうで新聞広げてみていただけますか?」と、なんでこんな丁寧な言葉を使わなくてはいけないのかというぐらい丁寧な言葉を使っていったのですよね。そうしたら、その男の人が、くしゃくしゃと新聞をたたんで、ぱっと腕を組んで高槻か新大阪までグーッと寝たのです。だから、新聞を読むことが目的ではなかったということが、わかったのです。まさにセクシュアルハラスメントです。京都を出てからすぐだったのです。そんな長い時間をかけて、「どうしよう、どうしよう」と思ったわけではないのですが、すぐにいえない。そして、自分がこんな目に遭うときは絶対大丈夫、すぐにいえると思っていたこの私でさえ、いえなかったのです。若い女性、普通の勉強していない「怖い」としか思えない女性は、もっといえないだろうと思いました。 その話を女性、男性がいっしょの飲み会のときに、「私、いえなくてねぇ」と話をしたのです。そうしたら、もうひとり別の女性が、「わかる、わかる。人権問題やっていても、女性問題わかっていても、なかなかいえんしなあ」というのです。その彼女は、夜暗くなってから新幹線に乗って、こんな体験をしたと話してくれました。新幹線の前の座席に座っている男性がポルノグラフィを見ていたのです。そのポルノグラフィが、窓に映るのです。だから、後ろの席に座っている彼女は、いつも通路側を見ていたらいいけれど、ふっと窓を見たら、そのポルノグラフィが窓に鏡のように映っていて、見たくないわけですよね。「どういおう、どういおう」とやっぱり悩み、最終的に、「すみませんが、そのシャッターを下ろしていただけますか?」と、彼女も丁寧で優しい言葉でいったというのです。「あんたポルノを見ているやろ。私はそれ見たくないねん。やめてくれ!というふうにはいえないよね」っていうのです。 そういう意味で、そんな目に遭った時に、なかなか声に出せない女性たち。まして、男性が受けたら、もっと声に出せません。それは、ひとりの男子学生が授業が終わった後に、普通の顔をして、「先生、時間ある?」といい寄ってきた学生が、ふたりになったときに顔が変わったのです。「高校生のときに電車のなかで痴漢にあった」といいました。だから、男の人はもっといえない。彼は、今まで誰にもいってない。まだ乗り越えられていないのです。それを思い出す。嫌な思いになっている。だから、男性の被害者が少ない分、男性が被害者になったら声に出せないということがあります。そのくらい、セクシュアルハラスメントというのは声に出せないのです。 セクシュアルハラスメントをなくすためには でも、そのセクシュアルハラスメントが女性の被害者が多いために利用されるということがあります。痴漢されたといったら、女性の方が今は優位に立つわけです。知っている男性の先生が、満員電車に乗ったら両手を上に上げているといわれるのです。それは、おかしな話ですよね。そういう意味でセクシュアルハラスメント、痴漢がなくならない限り、それを利用して相手を貶めようという女の人さえ出てきます。それは被害者になった男性の人生が変わるわけです。職を失い、セクシュアルハラスメントをした男というレッテルを貼られ、その後の人生が変わっていくわけです。どちらにしても、セクシュアルハラスメントが現実にあるということが、非常に大きな問題だと思います。セクシュアルハラスメントの問題をみなさんがほんとうにわかった上で、それをなくすためにどうしたらいいかということと合わせて、みなさんの場合は先生ですから、相談を受けることがあると思うのです。見知らぬ男にということだってあるはずです。男の子の性的被害が増えています。だから、男女の関係なく、被害にあった子どもたちが、先生のところに行っていえるようにというのは、なかなか難しいでしょうけれども、そういう社会になりたいと思います。 それは、女性問題だけではなくて、あらゆるいろいろなところで人権侵害が起こっている時に、または人生を生きていくなかで、いいことばかりではないさまざまな苦しみや悲しみや悩みをかかえる時に、私は誰にいうかという問題ですね。やはり、わかってもらう人にいえるという人間関係がありますから、わかってもらう人間関係を私領域で作るにはどうしたらいいのか、公領域で作るにはどうしたらいいのかという問題も含めて、人権問題として考えられたらと問題提起をさせていただきました。みなさんのご意見、ご質問を受けたいと思います。
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