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連続講座
第1回 2002.3.1     講師:(財)西成労働福祉センター 住田一郎さん
出会い・伝え・つながるために

たたずみ・固まり、排除市合う関係が、日常の差別意識を支えている。
自分を語る事に躊躇するのは、判り合えない現実に出会ってきたから?
少しずつ解きほぐし、つながりあえる糸口を見つけだすために・・・。
 被差別の側が持っている意識の有り様を、その生活実態から明らかにする中で「差別されるかもわからないというあらかじめの不安」についての共通理解を得る。

【はじめに】

 それでは、よろしくお願いします。

 3回連続講座ということで、皆さんに全ての講座に参加していただくのは大変かと思います。一回一回で、それなりに完結した問題状況をつかんで頂けるものにしたいので、内容にある程度重複する部分もあるかもしれませんが、進めて行きたいと思います。

 まず、僕自身がずっとこだわっていることなんですが、一言で言って、僕たちの親の世代であるとか、その前の世代も含めて、長年部落差別を受けるということは、実際にどのような傷を負わされてきているのか、そこを、やはりちゃんと見ていく必要があると思うんです。

 従来、これは非常に難しいところがあったんですね。この様な部落の色々な問題、課題を前面に出すと、それこそ「それ見てみろ、だから部落差別をされても当たり前だ」と取られやすい、そういう部分がどうしてもあるんですね。

 僕も、20年くらい前までは、特措法(同和対策事業特別措置法)が互いに定着し出すまでは、たぶん、この様な問題提起は出来にくいし、ちょっと無理だろうと思ってきました。

 しかし、実際には、この3月で33年間行われた特措法の同和対策事業が終わり、その終わりというのも、もうそろそろ行政的に、予算的に負担であるからやめたとか、そういう面だけではなくて、解放同盟そのものも、1992年の最後の延長期限の翌年だったと思いますが、当時の上杉委員長が「今後これ以上の特措法に基くような法律は要求しない」と明言されました。

 当然、従来の対策事業で勝ち取った成果、到達点を具体的にはっきりと認めた上で、自分たちは25年間の同和対策事業を成果にして、自分の中で血となり肉となるような自己実現、自己責任の問題があるのだという、そういう捉え方だっただろうと思います。そのことは、僕の地域、大阪の住吉ですが、それが行われたときは大議論だったんですね。

 「なんで、部落差別がまだあるのに、これ以上の対策事業を必要としないのか。それはおかしいやないか」というような形で。まあ、下世話な言い方ですが「今までより解放同盟の力が弱くなったんと違うか」と。「今まで乳飲み子抱えて、役所闘争して、役所の前に座り込むような闘争をして、あんな闘争をやったんやから、いくらでも我々はやるで」という声が、教育守る会会員からも上がってきました。

 確かに、部落差別があるのか、ないのかと問われれば、それは当然ないわけではないですから、同和対策事業も当然やないか、という三段論法的な言い方もあるわけです。実は、僕はその時にも言ったわけですが、これは一方的に行政が決めたわけではなくて、我々運動側が長年ずっと闘ってきた中で、そういう対策事業をどんどん導入することによって勝ち取られた中身があるだろう。地域の改善、住環境の改善であるとか、職業のより一定の保障、教育の保障も非常に行き届いていると。

 そういう状況の中で、「ある意味でおんぶに抱っこ的な対策事業にどっぷり浸かるような姿勢ではだめなんだ。だからこそ、敢えて言うならば、我々の方で辞退したという形で捉えなければだめなんではないか」と言ったのを、昨日の事のように思い出します。それ以後でも、結局、10年間対策事業は続いてきたわけです。それも、いよいよこの3月で終わります。

 同対審答申の中にある『部落差別がある限り、同和対策事業は行う』というこの一項は基本的に消えたわけではないですから、結局、何らかの形の同和対策事業、同和行政は行われる必要はあると思います。しかし、これまでと全く同じような形態の同和対策事業が必要なのかと問われれば、これは、ちょっと違うんではないかということを、私自身は考えていました。

 そういう状況の中で、従来ならば、我々の問題や、おかれている状況そのものを客観的に見ていくというような作業は、非常に遅れていたと思うんですね。

 もう一度、自分たちが差別され続けることによって残念ながら身に付かなかったことや、同時に見落とさざるを得なかった課題について論議を繰り返す必要があるのではないかと思います。

 そういうことで、今日は、そちらに重点を置いてお話をしたいと思います。ただ、その中で僕がずっとしゃべっているという状況よりも、皆さんの日頃持っていらっしゃる、いろいろな課題を出来れば出していただいて、皆でディスカッション出来たら、そちらの方がより有意義であろうと思います。質問、論議の時間ちょっと多めに取りたいと思っておりますので、私の話は最小限にしておきたいと思います。

 さて、一応レジメを作って来ました。これに基づいて簡単にお話を進めたいと思います。


【ザルドジョウ・タルヘビ・キリガエル】

 まず、いちばん最初に、これも古い方ならご存知かも分からないんですが、1960年代から、特措法がまだ出ていない、同和対策審議会答申も出ていないそれ以前の時点からも同和教育というのは行われてきました。その時には、ある意味では今のような形の同和教育が、いわゆる教育現場ではどちらかといえば反主流派で、非常にマイナーな形でやってきた歴史があります。その時に、小川太郎先生が神戸大学におられまして、僕がちょうど高校生のころに、彼が講演でこんなことを話されたんですね。

 これは、元々は中国地方の農民の間で言い伝えられてきた、どちらかと言えば自分たちを自嘲する言い伝えなんですね。もとは、山代巴さんという農民文学者が採録されたということを聞いております。

 どういうことなのかと言えば、ザルドジョウ。

 まず、ドジョウをざるにすくって、そのざるいっぱいのドジョウを土間にでも置いておきますと、最初は、ドジョウは本当にもう、くんずほぐれつと言いますか、こう、ワーッと上へ下へやってるわけですね。ところが一昼夜経って、朝、ちょっとそこを見てみると、ざるのいちばん上にはいちばん大きなドジョウ、それからいちばん下にはいちばん小さなドジョウ、真ん中にはそれ相応、まさにそういう形で弱肉強食。大きなものがいちばん上に座っている、こういう形でヒエラルキーが出来上がるんだと。まあ、こういう話をおっしゃっていました。

 もう1つは、タルヘビ。これは、樽の中にヘビをいっぱい入れておくらしいです。そうすると、樽の栓の穴は小さくて、光はそこから少ししか入らないですね。それをおいておきますと、ヘビは、最初は我先にその穴から出ようと一生懸命試みるんです。そして、必ず一匹のヘビがさあそろそろ穴から出たかと思う頃になると、そのヘビを下からつかんで引っ張って落とすんです。そんなことを何回も何回も繰り返すと、終いには、ヘビは穴から出ようという気力を全く失ってしまって、いちばん下にとぐろを巻いたまま全然動かなくなるという、そういう状況。

 それから、キリガエルというのは、まな板の所でも、まあ、他の板でもいいですが、カエルを捕まえてきて、そのカエルの一方の足を錐でボーンと刺しておくと。カエルは一生懸命跳ぶ、どんどん跳びはねる、跳んでいるのですが、結局、跳んでいる幅というのは自分の身の丈の分だけで、ぐるぐるぐるぐる回っているだけに過ぎない。

 こういう、三つの喩えを用いて、封建的な農村の中では、長い支配の中で、江戸時代も含めてでしたら、士農工商の身分制度がありましたから、そういう意識の中にどっぷり浸かってしまうと、全く変革の意識すら失ってしまう。我々は、農村は非常に保守的であると、勝手なことを言っている人もいますけども、同時に、農民そのものがこのような実態にがんじがらめになってしまっているとすれば、新しい力を出していく時には、やはり潰されてしまうということを言われた事もあります。


【被差別部落住民に影を落とす<保守性・事大主義・功利主義>について】

 解放運動が地域の主流派になったのなんて、数えてみれば最近です。今年、水平社80周年をやりますが、その80年のうち大半は、本当に部落の中の少数派、ごく少数派が運動に参加していただけで、まだ参加出来ていない部分がいっぱいあったわけですね。

 皆さんもご存知だとは思いますが、解放運動が大きくなるにあたっては、新旧交代でしたら、部落を二分するような闘争は、ほぼどこの地域にもあるんじゃないかと思いますね。いわゆる進取的な解放同盟と、寝た子を起こすなという保守的な人たちとの闘争を全部切り抜けて、大体、運動は始まっているわけです。そういう意味からみれば、『ザルドジョウ・タルヘビ・キリガエル』的な要素を部落の中には根強く持っていたという現実があります。そういう現実が、今新しい状況を迎えた中でどれほど克服されているのか。また、その問題にどれほど目を向けているのかという問題が、僕は、ある様な感じがします。

 もう1つは、これは『被差別部落住民に影を落とす』という形で、『<保守性・事大主義・功利主義>』というような言葉を書きましたが、たまたま、私の父親がいろんなことを書き残してくれた中に残っていたんですが、部落の中で解放運動が起こる、まあ、大阪の場合はそのほとんどの支部は、あの大阪ですら1969年の特措法以後の解放同盟成立が大きいんですね。その前に出来ておっても、実際に活発に動き出すのは70年。

 その前、昭和30年代ですから、1955年、1960年くらいは、ほとんど運動も小さかったわけです。そういう状況の中で、いわゆる部落の中に事大主義、それこそ強いものには負けてしまう、巻かれろ、ということは実際にあったわけですね。まあ、警察署長であるとか、学校の校長であるとか、行政の偉いさんであるとかに対しては、非常にぺこぺこする。ところが、実際に村の中では、力関係で親戚の多い方が勝っていると。そういう状況が実際にあったわけですね。

 それで、これも先ほどの部落を二分するような闘いの時に、いつも問題になります。私の地域も、ちょうど40年ですかねえ、大闘争になりまして、隣保館が保守的な人たちの意を汲んだ青年に占拠されるということがありましたが、実際に、最終的には部落解放同盟が力を蓄えて今のような力を持つんですが、その時は、たまたま僕も大学生で、親父に「なんで解放同盟が部落で主流派になれたのか」というようなことを聞いた時に、父親は私に「それはな、解放運動が理論、理屈で勝ったわけと違うぞ。これは親戚の数で勝ったんや。」と言っていました。

 「ええっ!」ということで私も驚きました。実は、これも親父が言っていましたが、僕の住田という姓は、住吉ではごく少数派なんですね。住田だけでは、うちの親父の理論がいくらどうであれ、1年か2年で放り出されていたと。町におられんようになったと。そうならなかったのは、うちの母親の方が部落の中では圧倒的に大きな家系でしたから、「そこと縁結びをしたから、だから、もったんや」と言っていました。力関係でそういうことが起こっていたということを聞きました。

 それから、さっきも言った功利主義というか、「ゼニにもならない、何アホなことしてるねん」というのが、解同を批判する人たちの最初の言葉ですね。ところが、それがだんだんゼニになりだしましたから(笑)、そういう人たちが、すうっと、こっちになびいていくというような状況も出てきました。

 それは、一概に悪いということではなくて、具体的な状況から見たら、あり得るわけですね。
そんな形で、やはりそういう事大主義であるとか、功利主義であるとかが渦巻いていたことは事実です。そのこととの闘いに、解放同盟の初期には力を大きく割かざるを得なかった。


【『人間みな兄弟』のワンショットと高利貸し天国】

 もう1つは、『人間みな兄弟』のワンショットについてです。

 映画『人間みな兄弟』は、60年代にできた非常に重要な、亀井文夫さんのドキュメント中心にした立派な作品です。この中で、非常に有名なシーンがありますね。幼い兄と妹が、茶碗と箸を持って、隣かどこかへご飯を食べに行くシーンがあるんですが、あのシーンを見て「ああ、部落ってなんて温かいんだ」ということを感じて、「流石やな」と感じる人がいっぱいいるんですが、部落の私から見ますと、覚めた目で見ますとですね、「そんなことは当たり前やないか、行っている先は親戚の所や」と思っていますからね。親戚なら、別に他地区でもあることですね。部落だから温かいわけでもなんでもない。

 これは、後で出てきますが、何故そういうことを僕が言うのかといいますと、親戚付き合いというのは、いわゆる血の問題ですね。その血の問題というのが非常に濃くなってきますと、今度はどういう問題が起こってくるのか、まあ、私の連れ合いなんかは、被差別部落の出身ではないので、彼女が部落の中で運動をしていく中で、非常に大きなしんどさがある。部落民として受け入れない。

 部落民として受け入れる必要があるのかどうかというのは、またちょっと別ですが、「あなたは部落民ではないから解らないでしょう」という形で意見を潰してしまう。そうすると、「部落民になれないと、一緒にはやれないのか」と聞くと、強要しているんですね。「あなたはいつまでたっても部落民にはなれない、部落民でない人には、部落民である我々の気持ちはわからない」と断定する、これが殺し文句なんですよね。

 このことは、本当に、部落、部落外の溝をどう縮めていけるかという運動をしている我々にとってどういう意味があるのかということは、ひとつの重要な課題ではないかと考えているのです。

 もう1つは、高利貸し天国と書きましたが、他の地域ではどうかと聞かれますと、僕もちょっと困りますが、少なくとも、大阪市内のいわゆる都市部落で起こっていることとして聞いて下さい。

 僕の地域は、500戸くらい、人口1500人くらいの、まあまあ大きい地域だと思います。そこでの話なんですが、20年、30年くらい前、サラ金が非常に大きな社会問題になった時よりも前に、部落で行われていた高利貸しの実態というのは、たぶん、皆さんはあまり知らないと思います。十日一(とおかいち)という言葉がありますね。これは、利率が10日に1割という高率なんです。

 10日に1割といえば、普通はすごい高率でしょう。どういう形でそんな高率になるのかと言いますと、形は1ヶ月に1割なんですね。1ヶ月に1割なんですが、部落の中で収入を持っている人達は、月初め、あるいは月末に給料をもらうわけですから、ずっと給料を使っていったら、大体20日前後にしんどくなりますよね。その時に借りるわけで、そうして月の途中で借りても1ヶ月は1ヶ月で、翌月の1日には利子を返さなければなりませんから、月1割で借りても結局、ほとんどは10日で1割という形で借りる。

 部落の人たちにとって、そんな借金をできるところは部落外にはないわけでしょう。部落外にはないですから、ある意味では非常にありがたく借りるわけです。十日一をありがたく借りる。さらにそれだけではなく、借金先に子どもがおれば、外で出会うと、心付けを渡す。そういうことをやらざるを得ないわけですね。そこで、実質は10日に1割以上になる。それでも、言葉は悪いですが、非常にありがたく、ありがたく高利貸しから金を借りる関係。

 ですから、取材して面白いと思いましたのは、過去、30万円、今で言っても小さな額ではないと思いますが、当時なら今の10倍、15倍くらいの価値でしょうか。1割が1ヶ月の利率でしょう。そうすると、30万円なら3万円、当時勤労者の平均所得は1ヶ月に1万5〜6千円だから、その上がりだけで、30万円あれば自分一人は十分に食べていけるだけのお金が入る。

 そういう意味では、部落の中で非常に苦しい生活を強いられる人がいながら、楽になる人はますます楽になるように出来ている、そういう状態。しんどい人たちはますます負担を大きくするという状況は、実際にあったわけですね。

 そういう状況をどう克服するかは、先ほども言いましたように、人間関係の濃さが非常に大きな意味をもっているんだと。「そんなもの、逃げたらいいやないか」 「夜逃げされたら、どないすんねん」という話もありますが、当時ならば、「夜逃げしたとしても、出て行く先は、結局部落なんやから、そんなん、すぐ判るねん」と言っていました。

 なるほど、住吉にも近くに部落がありますが、結局そういうところを回ってしか夜逃げできないわけですから、そんなに取りはぐれはないということも、私は聞きました。

 運動の発祥の時からぎりぎりのところで、そういう状況の中にどっぷり浸からざるを得ない。ある意味でそれは1つの生活の知恵、共同体の知恵ですね。共同体全体としては、何とか持ち応えていますが、その共同体の中では非常にどろどろした、そういう課題に、基本的に一矢報いたというか、そのことを克服するひとつの動きをつくったのが、まさに解放運動、解放同盟だったんですね。そのことを、強調し過ぎることはないと思います。
 
 69年以降、同和対策事業が実際に開始される中で、高利貸しの問題に関しては、生業資金を低利率で借りることで肩代わりされていく。しかし、その中で起こっていた人間関係の有り様、人間自身の考え方ですね、そういう問題をどれほど追及してきたのかというと、残念ながら、僕自身はほとんど追求されていないという思いを持っています。

 だから、敢えて私は課題は課題としてちゃんと見詰めようと。見詰めた状況の中で、それをどう克服するのかということが非常に重要な問題ではないかと思います。


【『貧困の文化』を継承する困難な生活・文化状況】

 4つ目は、アメリカの社会学者が、メキシコの非常な貧困層のスラム街の、5つの家族に対して聞き取りをした記録です。その中で現れてくる、貧困にならざるを得ないような子育て、例えば、子供は学校に行けないし、水汲みはさせられる。生活の糧を稼ぐために学校には行けない、というようなことがずっと行われていて、非常に子沢山である。子沢山の中では、子ども自身の教育の面も奪われていく。親子の関係の中には、じっくりとした対話なんか全く無くて、口で言うよりは手が早い。そういう状況の中では、夫婦もいがみ合っていく。

 そういう生活を、本当に赤裸々に聞き取り、聞き取りじゃなくて、見て、書いているんですね。見て、書いた記録の本が、『貧困の文化』という本ですが、『貧困の文化』という表題そのものにも語弊があって、ちょっとしんどいものではあるかなあ、とは思います。貧困層、スラム街に生きている人たちが、持たされざるを得ないような弱さ、例えば子育ての力がない、生活力が非常に歪である、というようなことが書かれていました、これを読んだ時に、一昔前の被差別部落の、我々の隣のおっちゃん、おばちゃん、裏のおっちゃん、おばちゃんの生活にオーバーラップするというか、重なってしまうんですね。

 私は1947年生まれですが、この頃までは地域の中で学年は40人くらいいましたね。その中で、高校へいったのは5人くらいですね、大学は僕ともう1人の、2人です。

 そうした時に、私ともう1人大学へいった人の家庭が経済的に裕福であったか、余力があったのかといえば、そんなものは全く無いんですね。ほとんど、かつかつと言うか、そんなに裕福ではない。我々よりももっと裕福な人は、いっぱいおったわけです。でも、その人は学校にはいかせない。価値観でしょうね。「学校なんかいって、なにすんねん」というような問題もありますし、同時に、いわゆる教育に「そんな無駄な金、よう使わん」というような状況がある。結局、お金があってもいかせないという問題が実際にあったわけです。

 解放運動が始まってから、非常に厳しい生活であっても、やはりいかそうというようになり、奨学金も出るようになりました。かつかつであっても、「まず、それが子供の財産やないか」と。親が子供に譲れるいちばん大きな財産は、やはり教育であろうということに転換する。その転換があって初めて、高校へ入学する子供たちが増えてきたと。

 うちの地域は、特措法が出る前から、実際に高校へいかせる親たちが非常に多くおって、それの中身は何かといえば、1960年の、あの安保の年にうちの隣保館が出来ているんです。その最初の頃は、毎月1回、地区の会といいますか、学習会をずっと持っていました。皆が集まれるように夜8時から夜10時、長い時には11時ごろまで、時事問題をやったり、部落問題をやったり、それから保健衛生の問題をやったり、病院の話をしたり、栄養の話をしたりということを、ずっと四十数回開いているんですね。

 僕も高校生の時で、その末席で座って聞いていた時もありますけれど、そういうことを通じて、「やはり教育が大事なんや。そのためには、子供を学校に行かせることが必要なんや」ということで、その頃からですね、高校へいく子供たちが非常に増えてきたということがあります。これは、ある意味では自己努力なんですね。

 奨学金は若干ではありますが出ていましたが、それだけで暮らせるわけではなく、昔、我々が子供を学校にいかせられなかった大きな原因は、確かに子供に奨学金が出たとしても、その子が家計にお金をもたらす事によって家が成り立っているということになれば、そんな奨学金はないでしょう。学校へやる奨学金はあっても、その生活費まで面倒をみるという、そんな奨学金はありませんから、結局は負担になるんですね。そうしたら「もう、やめとこうか」ということになった経過があります。

 そういう状況の中で、決して楽ではなかったわけですが、「お前の家計に入れる分は何とか自分たちでやるから、お前は奨学金を受けて高校にいけ」と、そういう動きが作られてきたと。

 それは、やはり僕は今でも大事にせなあかんなと。それは、今日、第三期の解放運動と言われるし、4月以降は、まさにそういう状況が我々にいろんな形で迫られるわけですが、自己努力と言いますか、やはり、どう自分たちそのもので、これは必要な価値やと思った時にそれに邁進出来るかということが、たぶん問われるんではないかということを、私自身は思っています。


【金時鐘・金石範両氏が提起するもの】

 これも、聞かれたら「ええ!」と思われるかも分からないんですが、実は私自身は、在日朝鮮人の人たちが、自分たち自身を非常に厳しい目で見ているというものに何度か接してきています。それは、例えばマイノリティと言うか、被差別の状況におかれている人たちが、ある意味、差別されている結果なんやからそんなことは見る必要もない、という言い方を反対からいっぱい言う人がいますが、実は、ぎりぎりのところで、自分たちのおかれている状況、厳しさも含めて、それに目を向けなければ、一歩も進めない。そういう状況に来ているという認識はあると思うんですね。だからこそ、こんな厳しいことも言うんじゃないかと思います。

 金時鐘(キム シジョン)さんが、今からもう10年前なんですが、『解放への日々 水平社70』というインタビュー記事を、京都新聞の4月3日から14日までの間に、5回連載だったと思いますが、載せているんですね。

 これは非常に鋭い視点で、今日ここに書いたのは、その一部なんです。この一部を読んで誤解されたら困るんですが、自分たち自身をえぐり出すというか、自分たちの課題は何なのかということを見ないでは一歩も前に進めないという形で、たぶん彼は捉えたんじゃないかと思います。

 すでに読まれている方もおられると思いますが、『よく一言で差別というが、差別はあってはならないこと、だれしも容認するはずのない、いけないことだが。それでいて依然として差別というものが続いている。そのひどさの中に、差別する側のエゴイズムだけではなく差別される側のエゴイズムもあるんだね。ない交ざっていることのひどさなんだね。むしろ度し難さにおいては、差別を被る側の度し難さというのは、する側より度し難いものだね。なぜなら、差別されることにふだんに慣れちゃうと、差別がひどいというのは悪様に人からひどいことを言われるとか、社会的機構的に格差を付けられるとか、ある特定の場所、勤務先、仕事上から疎外されるとか、そういった機構上の歪みだけじゃないんだね。本当のひどさは、そのことで自分を省みる内省力がなくなっちゃうことなんだね。人からひんしゅくを買うことを一切気にしなくなってしまうことだね。』と、「ええっ!」と思うようなことを金時鐘さんは書いているんですね。

 これは、「なんと、在日朝鮮人に対して、酷いやないか」と言われる方も、無いわけではないでしょうが、反対に言ったら、やはり、僕は同胞への愛情やと思いますけどね。

 自分たちの人間性を花開くためには、やはり、まず自らを省みる。自らはどういう状況なのかは、置かれている状況を見なければ何が変革の課題であるかも分からないですから、要は、課題そのものが見えなかったら、どうしようもないわけですね。それで、敢えて彼はこういう形の厳しい指摘になったのかもわかりません。

 実は、僕はこれを読みながら、全て一緒やとは思いませんが、部落の我々の中にこういう要素は無いのかと思った時に、無いとは言えないと思いますね。差別の厳しさというのは、やはり、そういう実態を生み出すんですね。

 一般的に、僕は利権の問題を言っているんではないんです。利権は利権でも、これはまた異質な問題だと思っています。そうではなくて、もっと内面的な問題なんです。自分自身を貶めてしまっている部落差別の現実。これは、僕は非常に重要な部落差別の酷さやとおもいますね。

 その酷さに乗っかって、「だから、酷さの結果なんだから、俺は何してもいい」なんていう開き直りは、僕は許されないと思います。部落差別の結果の酷さそのものは、この事を以ってしても、非常に告発しているんじゃないかと思います。彼がこう言うのは、まさに日本が朝鮮を36年間侵略しておって、やむを得ずこちらに連れて来られた。ということは、日本語も十分しゃべれなくて、チョーセン、チョン公といろんな時に馬鹿にされて、今でも虐げられているという、そういう状況こそが作り出した、1つの中身なんですね。

 これは、ある意味では、一般的な部落の人だけではなく、皆、外の周辺の人たちも分かっていることなんですね。「こいつら、やっぱりちょっと違うんやないか、ちょっと近寄れないな」と思いながらも、そのことの指摘は頬かむりしたまま。でも、「あの人たちは、私とは関係ないから」という形で終わっている限り、それは「関係ない」で済むわけです。

 しかし、本当の意味で連帯を望んで、連帯しようとしたら、そのベールは取っ払う必要がある。同時に、向こうの人たちが「部落のここがなあ・・・・・・」と思うようなことがあるとすれば、その「ここが」と思うところを指摘してもらわなければなりません。その指摘によって、「それは誤解やで。実はそんなことはない」というようなことも起こり得るわけですね。そういう意味で、今非常に重要な課題は、双方が持っている疑問、知りたいと言う欲求、そういった問題が赤裸々に出せるような、そういう場面が必要ではないかと思っています。


【被差別部落民の<戦きや懼れ>について】

 もう1つは、この中で《被差別部落民の<戦きや懼れ>について》と触れていますが、実は、やはり差別をされるんではないかと。差別をされた時に、非常な懼れ、戦きがあることは事実です。で、この懼れや戦きをどうするのかということは、我々にとっても、今でも非常に重要なことなんですね。

 確かに、このことによって、死ぬ人もいます。やむを得ず、自殺してしまう人もいるわけです。ただ、自殺をしたからといって、ただ大変だ、大変だ、と言ってはいられない。これは、外の人たちのみが解決されることではないわけですね。

 実は、もう少し突っ込んで、その自殺した人たちは、何によって自殺したのか。差別によって自殺したのは事実なんですが、差別によって自殺するということなら、全ての部落の人たちは自殺するか、と言えば、自殺しないわけですね。多くの自殺しない人々は、それを乗り越える、と言うよりは立ち向かう。「なにくそ、なんと馬鹿なことを言っている奴がおるんだ、そんなことに負けるかい!」という形で、それに立ち向かえているからこそ、死を選ぶんじゃなくて、自分自身が雄雄しく生きて行けるわけですね。

 それに負けてしまう部落の青年がおるとすれば、それは、責任を差別者側に100%転嫁したところで無くなるもんじゃない。我々自身がどう力を付けていくかという問題が、僕はあるように思うんですね。

 今までの解放教育の中で、同和教育、全同教の集会の中で非常に気になるんですが、被差別部落の、いちばんしんどい状況の人たちが寄り添う。これは言葉としては非常にきれいなんで、まず反対する人たちはいないと思いますが、寄り添うとか、それこそ理解してやるとかですね、そういう考え方は、ちょっと違った視点から見ると、やはり同情なんですね。

 「同情というか、思い入れというか、そういうことだけで、本当に対応されている被差別部落の子供たち、親たち自身が本当に成長するんですか」という問題があるんですね。寄り添うとかいう言い方は、非常に心地いいですから。

 ある時期、部落の我々も「ああ、あの先生は優しい、ええ先生や。本当に、我々のためによくやってくれてはる」と言ってきましたが、それは、100%彼らに依存して生きていけるなんて、そんなことはあり得ないわけですから、これは、ちょっと考えたら、他の周辺の差別の問題、女性差別もそうだし、障害者差別もそうだし、いろんな差別があると言われていますが、差別の問題に関して自分たちそのものの課題を抜きにしたような運動は、ほとんど潰れますよ。

 例えば、障害児の問題。これは「健常者が全部庇って当たり前や」と。「そんなことは自分でやる必要はない」という形で、自己努力の部分を殺いでしまうとしたら、本当の意味で立ち上がれるのかといえば、立ち上がれるわけがない。

 それと同じように、部落の我々自身が立ち上がれるような、自己像というか、自己実現する部分を曖昧にしては、僕は駄目だろうと思います。

 これは、後で批判してもらって結構だと思いますが、去年の鳥取の全同教研究大会で、僕は本当にびっくりしたと言うか、消耗しました。まず、それを簡単に説明します。

 部落出身の女性で、高知県のある町の教育委員会に所属していらっしゃる人だと思います。仮にAさんとしますが、その方が、こんな報告をされたんですね。「自分は興奮しやすくて、すぐに人をかんで(詰問して)しまって、結局、それで嫌な思いをいっぱいしていますが、この場で興奮してきても、その時はどうかよろしく」と前置きをして話しはじめたんですが、実は彼女はこんなことを言ったんです。

 この人は、部落と部落外の人々が共に学び合う一般の学習会で、そこの女性学級の責任者、会長らしいんですね。ある学習会の時に、まあ興奮してきて自分の思いのたけをぶつけたらしいんですね。「私たちのこの戦き、部落差別を受けることへの恐怖心、これが部落外のあなたたちには分からんでしょう。我が子が部落差別を受けるんじゃないかという、この切ない思いは、あなたたちには分からんでしょうが!」と言ったら、皆、しーんとして、何の発言も起こらない。もう、それでその会は終わってしまった。

 その後、飲む機会があって、その時に彼女の友人が、「あなたの気持ちは分からんでもないけれど、あんな言い方したら、そりゃあ、皆しゃべれんわ。それは分かった方がええんちゃう」と言ったわけです。その忠告に彼女は納得出来ないので、報告したわけですね。「なぜ、差別を受けてきた我々が、差別をしてきた人たちにそんな配慮をする必要があるのか。なんで、そんな気兼ねをする必要があるんですか。気兼ねせなあかんのは、差別する側でしょう」ということを言って、「今日参加している皆さんにお聞きしたい」ということを言ったんですね。

 その時は、彼女の報告の持ち時間が無くてそのまま終わって、翌日の総括会議の時に、僕は彼女にはっきり言ったんですね。

 「あなたの言っていることは間違いだよ。20年、30年前なら、そんな形で告発して怒鳴りまくっても、それはそれでよかったかもしれないけれど、今の状況の中で、少なくともあなただって、町の職員を勤め、そういう啓発活動の一端を担っているわけだから、そういう立場もありますが、実はあなたがいちばんやらなければならないことは、まだまだ啓発に消極的な人たちが多い中で、わざわざ女性学級に来てくれている、その人に充分分かってもらえずに、充分な対話も出来なくて、一体誰と対話が出来るんですか。1人でも多くに広げるということが啓発のいちばん重要なことなのに、その時に、少なくともこちらを向いている人を向こうに向けてしまったら、一体どないなるんですか。差別をなくすために誰と手を組むのか、誰と闘うべきかということを見失っているんじゃないですか。」ということを言ったんですが、まあ、Aさんのかむことへの居直りには多くの人が批判的な、そういう雰囲気だったんです。

 ここは、僕は、別に彼女を責めているわけでもなんでもなく、そのことによって、彼女がそれに気付いてくれればいい。

 ところが、腹が立つのはね、最後に、後20分くらいになった時に、総括討議の、総括ということを全同教専門委がやりますよね。その彼がね、愛媛県の人でしたが、「彼女の主張は全く間違っていません。その通りです。自分の地域だけでも、例えば識字学級に来ているおじいちゃん、おばあちゃん。そのおじいちゃん、おばあちゃんの『ここがだめだ』とか、『ここをもう少し変えた方がいいんじゃないですか』とか、部落差別している側に言えるんですか。それと全く同じで、そんなことを言うことはできない。変わるべきは部落差別をする側なんだ」と、こう言った。僕は頭にきたから、「ええ加減にせえっ!」と怒鳴りましたが。

 そういう主張が、やはり、受けると思っているんですね。彼は、棒読みのごとくやっていましたから。議論抜きで、はじめから答えを作って、それを読んでいましたからね。そういう時にはそう答えるべきや、となっているんですね。

 これは完全に、贔屓の引き倒し。こんなことで、例えば先程のAさんが変わるなんてことは絶対あり得ない。もっと実態そのものに即したようなことを、厳しいことを含めて当然言うべきなんですね。それを言わないところに、いちばん大きな弱さ、落とし穴があるんではないかと。まあ、これも、ある意味では真綿でくるむ同和教育ではないかなと。

 実際に小中学校の現場の中で、先生方は一生懸命考えていても、部落の子供たちを、結果的に御輿の上に載せているような実践はないのか。乗っている子供は嬉しいでしょうね、楽でしょうね。でも、それを下から支えている子供はどう思っているか、周りの子供は一体どう見ているか、という問題は、どうでもいい問題ではないですね。そこをどう繋いでいくかという問題は、やはりあるような気がします。

 あと、ここではコミュニケーション能力の欠如ということを書きましたが、これは決して悪いということで言っているんではなくて、結果的に、コミュニケーションそのものがそんなに必要でないような、対話がそれほど必要でないような生活を強いられてきている。その結果として、話すこと、コミュニケーションを持つことが非常に苦手というか、しんどい親たちがいることもまた事実なんです。

 家庭訪問しても、十分意思が疎通していない。たぶん、先生方の思っている思惑と、聞いている親御さんとの間には非常にずれがあるというようなことも、しょっちゅうあるんではないかと思います。

 これは、こちらを変えたらいいというだけの問題ではなくて、相手を変える努力をしてもらうということが大事です。変えるということは、会話を成り立たせるということが必要で、会話を成り立たせるために、親御さんが置かれている状況と、先生方が考えていらっしゃる状況とをどう共通理解させるかというと、僕は、ある意味で先生方がもっとそこに踏み込んで、そこに入っていくことが絶対に必要だと思います。そのことによって、部落の人たちの言っていることを鵜呑みにするということではなくて、まず対話し得る状況を作った中で、やはり、課題は課題として言っていく必要があると思います。

 例えば、僕の地域でも、学校の先生方と教育懇談会でいろいろ課題を出していった時、こんなことを言っていましたね。

 家庭訪問する時に、部落の子供は課題が見えない。地域の活動が見えない。だから家庭訪問をしなければならない。しかし、家庭訪問をして、いわゆる課題だけを言ってしまうと、親は、ほとんど子供のことを全否定したような対応をしてしまう。「なんじゃ、こら!お前は、こんなあほなことしやがって・・・・・・」とか。

 そんなことを横で聞かされたら、先生は居たたまれませんから。別に、陰口をしに来たんではありません。実はあれやこれやと、このことをどう克服するか、教師も力を合わせて、子供を、もっとしっかりさせようと思って言っているのに、親に全否定されたら先生は立場がない。

 そういう経過が何回かあって、先生は、課題が3つくらいあるとしたら、10やるとして7つくらいはいいことを言って、3つくらいは課題も入れようか、と。そうしたら今度は、その3つはきれいに忘れてしまう。「先生はええところばかり言うてくれはる。うちの子はええらしいわ、優しいらしいわ」と。やはり、そういう、「ちょっとそれは違う」ということも起こるんですね。

 そういう問題が起こるということは、やはり、どうも、ずれているんですね。ここの、ずれている間は、いくら努力しても意思が疎通しないという問題があるような気がします。

 僕の地域でも、教育懇談会が何度かありましたが、「先生方も、課題は課題として出して下さい。高校へ入る前の最後の懇談会ですから、子供の課題があれば出して下さい」と言ったんですね。

 そうしたら、一人の女の先生が、意を決して話されました。自分のクラスのA君は、3年間受け持ちでした。中学校で文化祭がありまして、その時に毎回クラスで出し物をすると。それで、役を決めるんですが、その時に、そのA君が真っ先に手を挙げて、「僕、照明係をやります」と。彼は3年間ずっと照明係をやっているんです。それで先生は、「3年間照明係というのは、それはちょっと・・・・・・もっと、役に回ると言うか、脚光を浴びると言うか、自分を押し出すと言うか、反対に言えば、それだけ自分の責任も強いわけですから、そういう場面を作れないかなあ、なんでそんなに消極的なんだろうな、というのを感じました」と言われたんです。

 それを、先生が言い終わるか終わらないかのうちに、A君のお母さんが、「一体、何が問題なんですか!自分で手を挙げて、積極的にやると言って、何が悪いんですか!」と言ったものですから、先生も黙って、そのまま会が終わりそうになったんですが、「ちょっと待って、先生は、別にA君が3年間照明係をやったことを悪いとは言ってないよ。悪いとは言っていませんが、学校の演劇くらいだったら、照明係というのは目立たない、注目されない。そういうものを3年間やるんでしたら、あまりにも惜しいでしょう。役で、一度くらいは舞台に出て、台詞を覚えるとか、そういう努力をするとか、いろんなことをすることも必要でしょう。なぜ、彼がそれをしてくれないのかということを先生は言っているんでしょう」と僕が言いましたら、「そう言うてくれたら、分かるんやけど」と治まりました。

 でも、違うんですね。やはりずれているんですよ。ずれていても、それを言えないままだったら、もっとずれたままですから、言わざるを得ないので言うんですけれど。やはり、そういうことはしょっちゅうあるんですね。

 そうすると、先生方は別にA君を否定して不足を言っているわけではないんですが、聞いている親御さんは不足を言われていると思っていらっしゃる。それで反発してしまう。

 これには、特効薬があるわけではないですから、経験しかないと思います。僕の担当したような、そこの部分を誰が担うのか。お互いに、そこを乗り越えるということが大きな課題であるという気がしています。


【今井正監督作品 映画 『橋のない川』 第一部】

 次に、今井正さんの『橋のない川』の第一部を観られた方は、あまりいらっしゃらないと思いますし、解放同盟が差別映画だと否定したこともあって、観る機会が無いんだろうと思いますが、僕は正直に言って、すごくいい映画だと思っているんです。

 いい映画だと思っている中身は何かと言えば、部落の当時置かれた状況、その非常に悲惨な状況を、先ほどお話した金時鐘さんが言ったように、顰蹙をかうことに一切心を向けない、気を使わない、度し難い、大正の時代からのその悲惨な状況を描き切っていると僕は思っているんですね。いちばん最初に見た時、僕は、ある意味衝撃的でしたね。

 今はもう亡くなられました、伊藤雄之助という非常に芸達者な俳優さんが演じた、永井籐作という人物なんですが、部落差別によって彼の中に現れる悲しみ、したたかさ、先ほども言ったように、顰蹙をかっても何とも思わない態度、アルコール中毒の症状が進んできて、どうしようもないような、そういう状況が非常によく出ているんですね。

 それを観た時に、部落の人たちは、やはり居たたまれなかったのではないかと思いますね。なぜなのかと言えば、隣にいてるからなんですよ、たぶん。永井籐作に描かれたような人たちは、自分の部落にもいるだろう。自分の部落にいる人を通じて、例えばあの人を通じて自分の部落を見られている、一括りにされてしまう。一人一人は違うんだけれど、あの人を見て、なんか部落が一括りにされて「だから、部落は駄目なんだ」と思われるとしたら、やはり自己防衛的に、「そんなことは描くな」という気持ちがはたらいたとしても不思議では無いな、と僕は思っています。

 思っていますが、やはり事実は事実であって、リアルに描く。その事からしか出発できないと思っています。

 ちなみに、あと、70周年の記念で出来た『橋のない川』は、きれいなだけですね、画面が。音楽がいいという人もいますが。やはり、部落差別がどういう形で厳しいのか、非常に内面にまで影を落としているということを描き切っていない。描いているのはエッタとかいう言葉ばっかりですから。あんな形で、差別と言われるんやったら、言わんようにしたらいいだけでね。

 今井正さんの映画の方は、さすがに、生活そのものに染み付いている部落差別の影を描き切ったと思いますけどね。

 ただ、どう見るかという面は、いろいろありますけどね。さすがに、今は差別映画だという声は少ないですから、たまに一挙に第一部第二部上映している会がありますから、機会があったら、ぜひ観ておいて損はない映画やと思います。

 そういう形で、リアルに描くとはどういうことであるかというと、私自身も色々な形で経験しましたが、私の友達が学生の頃に、今は亡き前委員長、朝田善之助という方のところへ行って、いろいろ勉強している時に、朝田さんが「社会的ないろいろな弱さがある。そのことを指摘してしまうことで、部落外の人たちに悪乗りされる可能性がある。そういう意味では、弱さはありますが、それは我々の方から言ってはならないんだ」ということを言っておられたと、彼から聞いています。

 彼はまだ学生で、その時は「ああ、そうかなあ」と思って納得したということなんですが、僕自身は、やはり違うんですね、部落の弱さというのは、そんな簡単な問題ではないなと。

 要は、部落差別の厳しさ、部落差別がいかに大変であるか、だからこそ部落差別をなくさなければならないという、ひとつのエネルギーとして、事実を事実の問題として、一般社会では起こらない問題がなぜ起こるのかということ、それが、部落差別の結果やないかと、僕は思っています。

 やはり、もっと赤裸々に出すべきやと思うんです。今では、赤裸々に出したからといって「部落差別は当然だ」と言う人はいないと思いますよ。

 凝り固まっている人はどんな時にもいますが、自分自身の課題に気付いている、部落差別の結果こういう問題を負わされてきていると気付いて、それと格闘している。それを見て、「お前ら、なにアホなことしてるねん。お前ら、部落民は部落民や」と言う人はいないと思いますね。

 やはり、課題を見付けてそれを解決しようとしている努力に目を向ければ、後押ししてくれるし、援助してくれるんじゃないかと僕は思っていますからね。敢えて、課題は課題として明確にしよう。その上で、やはり、どう克服していくかを考えていくということを僕は言いたいと思います。


【兵庫県八鹿出身の若い友人から知らされたこと】

 あと、八鹿高校事件というのが1974年に起こりました。この事件は解放運動にとって、非常に大きな役割、転機をもたらしました。これ以前と以後では、ある意味で運動のあり方を変えた象徴的な事件なんです。

 まあ、その事件については、今はちょっと置くとして、今日紹介したいのは、1972年に八鹿で生まれた、僕の若い友達のことなんですね。

 彼女はたまたま大阪に来て、大学の福祉学科に入学する。そこで在日朝鮮人の問題、オモニの識字学級なんかにずっと関わって頑張っている非常に前向きな人なんですね。

 その人が、たまたま僕の勤める労働福祉センターにアルバイトに来て、僕の目の前に座ったんで、話をしていたんですね。その時「あなたはどこ出身なの」と聞くと、「八鹿です」ということでした。「ああ、八鹿ですか、じゃあ、部落問題とかは、よく知っているよね。なぜ、在日朝鮮人の問題にかかわって、部落問題には関わらないのですか」と聞いてみたんです。彼女はきょとん、としているんですね。「ええっ?」という感じで。

 それで、話をしてくれたんです。八鹿の事件が起こった時は、彼女はまだ2歳ですから、そんなに記憶にあるわけでもない。ところが、あの1974年の事件以後、八鹿では公の場で部落問題についてしゃべることはほとんど無いというんですね。良い、悪いはちょっと置いておいて、現状として無かったんですね。「大人の間でも、部落問題を話し合うという雰囲気はまったく無かった」そうです。

 「ああ、そうですか。なら、どうしてあなたは部落差別問題について知っているの」と聞きました。「そりゃあ、知ってますよ」と話す。「え?ちょっと待って、全然、誰からも聞くようなこともなく、何も言われなかったら、どうしてあなたは部落差別問題のことを知っているの?」、「それは、私は、幼稚園、小学校、中学校と、部落の子どもがクラスメイトにいましたから」、「部落の子がクラスメイトにおったからといっても、別に彼らが部落民と明らかにしているわけではないでしょう。なんで分かったの」と聞くと、彼女はちょっと言いにくそうに「実は、分かるんです」と。「住田さんやから、言いますけどね、実は小学校、中学校と、親御さんが参観とかいろんな用事で学校に来られますよね。そういう時に、あるグループの人たち、後で考えたら部落の人たちだったんですが、そのお母さんたちが、私たちから見て、どう見ても荒んでいるんですよ。生活とかも含めて、ほんとうに荒んでいるということを感じたんです。それと同時に、そのお母さんたちの子どもたちが教室を出たりすると、その子どもたちに接する先生方の態度が、どう見たって、私たちには納得いかんのですよ」と。「なんでそんなに甘やかすんやろう。なんでや」と。「そういうことが何回も重なると、ああ、あの人たちは部落の人たちや」と、気づいたそうです。

 だから、誰から聞いたというわけではなくて、そういう状況の中で知った。そのような体験を通じて知った部落認識を克服することは非常に難しい。偏見も含めた、その状況の中で知ったからですね。彼女にとっては、その状況を解きほぐす場が無いんですね。たまたま僕と話して、30歳近くなって、「初めて部落問題について話しました」と。

 そういう状況が、今でもまだ八鹿にあるとすれば、非常に屈折した形で部落差別問題が残っているんではないかという感じを、僕は強く受けましたね。こういう形で≪実体験として持った差別意識≫、部落に対する違和感をどういう形で払拭するのか。

 例えば、皆さんが日頃行われている教育実践でこれを克服出来るのかどうか。これは、後で批判して下さっていいですが、今彼女が負わされている、自分の中に刷り込まれた、それも一般的に刷り込まれたのではなくて、自ら空気のように感じた中でつかんだ被差別部落に対する意識をどう克服するかは、本人にとっても困難なことではないかと思います。

 ただ、同時に、これは人と人との出会いですから、彼女にとって部落民というのはどんなイメージかといえば、非常に悪い印象でしかない、ということになりますね。

 彼女にとって、こういう形でまともに部落問題を話せる私もまた、部落民である。今までは、全然関われない、全然違うという形でそのままにしていたが、今目の前で話をしている私は、その違うと思っていた部落民であるという状況、「ええっ?」という感じですね。

 八鹿でも何らかの形で対話はあると思います、実は去年の6月2日、『わたしの視点』という朝日新聞の投書欄に私の文章が載った時(『自己責任担い対等な対話を』)、彼女のところに最初に電話をくれたのは、八鹿の両親だったらしいです。「今日の朝日新聞に、住田さんの主張が載ってるで」と。両親は「これなら、私らでもよう分かる」と言ってくれたそうです。

 また、そういう出会いがなければ変わり得ないですね。私たちにとっても、例えば自分たちのことについて話しをすると、理解してくれる部落外の人に接する体験。そのインパクト、影響力と同じように、部落外の人たちが部落の人たちと接して、「ああ、そんなことも言えるのか、そんなこともあるのか」と感じた時、一つに固まっていた認識が氷解させられていく。ほんとうに、差別というのは構造的な部分も当然ありますが、実際に行うのは人と人との関係ですから、その関係を通して固まった認識がひとつでも崩れていくようなことが起これば、やはり、少しずつでも変わってくるんではないか、という思いを私は持っています。

 最後に、こういうことを含めて、私が強調するようになってきたのはいつ頃からかと言いますと、これは1990年ごろなんですね。

 今より雑駁ではありましたが、今日お話したような意見を持つようになったのは、1981年、今から20年くらい前からなんですね。しかし、そのころは支部内で、ずっと活動してきて、やっと「お前の言うことは、ようやく分かりだした」といわれる状況でした。だから、今でも私の意見が多数派になっているとは思いませんが、言い続けることの意味は、やはり大きいと思っています。

 これは、自分自身の考え方が絶対に正しいということを言っているのではなくて、「自分はこう思う。そのことに関して皆さんはどう思うか。そのことを批判するならもっともっと批判してもらって、その中で自分の意見を修正もするし、同時にもっと深めてもいく」。そういう立場で私はいるわけです。


【シェルビー・スティール 『黒い憂鬱』 (原題『我々黒人の人柄について』)】

 世界的に、人権そのものが非常に重要だと言われてきました。もう5〜6年程前、五月書房から、シェルビー・スティールという人の『黒い憂鬱』という本が出ているんですね。

 これは、原題を『我々黒人の人柄について』といい、7つのエッセイが掲載されています。

 シェルビー・スティールは黒人です。その彼が、重要な問題を提起しています。アメリカでは60年代以降公民権運動がずっとこれまで継続しています、アファーマティブアクション、黒人優遇策、少数者優遇策というか、それが、今の自分たち黒人の自立、自己実現、自己責任の問題にとって一体どういう位置を占めているか、足枷になっているんではないかというのが彼の立場なんですね。

 ただ、彼はこの政策を否定しているわけでもなんでもなくて、従来と同じような形でそれに乗っかってしまう、ぬるま湯に浸かっているだけという状況ならば、黒人の自己実現はできない、黒人が羽ばたいていくことは出来ないだろうということを言っているんですね。

 これは、非常に反響があった本です。全米でもロングランで、図書館での貸し出しも連続何週間も第一位に挙げられた本です。

 ところが、これが誰にいちばん受け容れられたかと言えば、白人の知識人層なんですね。黒人からは総スカンです。「何でこんな事を言うのか。黒人の足引っ張りじゃないか」と。

 しかし、僕も読んで共感する部分が多くありました、先ほども言った<戦き>であるとか、 <懼れ>であるとかが裏返しに作用したとき、非常に攻撃的になりますね。少数者優遇策が当たり前になっている状況がずっと続くと、白人の知識人層は黒人と対応する時にいつも一歩引いている状況になっているんですね。

 そういう状況が見えたとき、シェルビー・スティールは、それこそ反対に嫌なんですね。「もっと対等に対応せよ」と。

 ところが白人は、今までの自分たちの差別、黒人の被差別状況を知った時点でちょっと引いてしまう。そこにスティールは、ある意味でいたたまれなくなり、咬みついてしまうんですね。「なんじゃお前たちは!」という感じで。それで相手はしゅんとなってしまう。そうなるとまた、本人自身が非常にいたたまれない。そういう状況が繰り返されてきたと、彼は書いています。

 面白いと思ったのは、彼が中学生くらいの時に、白人の友達の家に行った。別に裕福でもなんでもない白人の家ですが、そこでシェルビー・スティールが普通にしゃべっていたら、その友達のお母さんが「あなたの言い方はおかしいよ。その言葉遣いはおかしいよ」と言ったんですね。

 ところが、シェルビー・スティールは、今までそんなことを言われたことは無かったですから、はっとして、非常に驚くわけです。それで、すぐに帰って「なんて、僕の友達のお母さんは差別的なんだ。僕の言葉遣いがおかしいと言って差別した」と言った。それが、その友達のお母さんの耳に入って、そのお母さんが学校に飛んで来たんですね。そしてシェルビー・スティールの前で「私は、あなたを差別しているわけでもなんでもない。あなたが使っている言葉は、白人社会で一般的に使っている言葉と違う」と言ったんですね。

 アメリカでは、<黒人英語>として、エボニックスという言葉があります。これは、使っていることは使っているんですが、主語、述語がまちまちであったり、不定冠詞、定冠詞が全然なかったり、しゃべる言葉をそのままやっているような、そういう言葉なんです。それは、いわゆる方言とはちょっと違うものですから、それはそれで否定はされないですが、例えば、よく言われますよね。学校で行われている話し言葉と書き言葉、それと部落の我々が家でしゃべっている言葉とが、全く同じであるかと言われれば、これは同じで無い場合がありますね。

 そのことが、部落の私たちの子どもにとって、そこに追いつかなければならないという、非常に大きなハンディになる。そのことをどうするかという研究課題があるくらいですよね。

 ところが、実際にエボニックスという形で話しているならば、そのことによって、白人との対話が途切れてしまう、その状況を友人のお母さんは憂えていた。だから心配になって、シェルビー・スティールに言葉遣いのことを指摘したんです。

 それで、「あなたを差別しているわけでもなんでもない」と言われて、彼は、その時は迫力に圧されたようですが、それでもよく考えてみたら、あの時あのお母さんが血相変えて自分を説得するために来てくれたあのことが、自分自身の、今サンノセ州立大学で英文学の教授として活動している、その礎石になっているというようなことも書いている。

 そういう形で、何か被害妄想的な状況に襲われたり、過剰反応してしまったりするということが起こっている。その、起こっているという事実を非難することは簡単ですが、その元になる我々黒人が黒人社会の中でしか生活もしない、経験もしないことによって起こる世間との途切れ、途絶え。そこが今問題なんだということを言っています。

 僕は、シェルビー・スティールの提起する問題は、黒人社会の中でも、たぶん、徐々に受け入れられると確信していますが・・・・・・。

 また、その中に、もう1点面白いエピソードを入れております。彼は、ロスアンゼルスの郊外にある、サラトガという高級住宅街に住んでいるんです。彼の奥さんは白人なんですね。非常に裕福な家庭であると思います。だから、黒人社会からの反発もあるわけですが、その住宅街に、もう一軒黒人の家族が住んでいるんですね。

 勿論、白人社会の高級住宅街ですから、黒人社会を脱して成功した人ですね。ところが、彼らはシェルビー・スティールとは全く目も合わせない。口もきかない。当然、近所ですからその辺りのモールへ行って、買い物をしておれば顔を合わせることもあるわけですが。

 ある時、シェルビー・スティールが思い切って話しかけた時に、彼らはどんな事を言ったかと言えば、「私の家には、2つの鉄則があります。1つは、黒人以外の人とデートしてはいけない。もう1つは、黒人大学にしかいってはならない。この2つを、私たち家族は子どもに言い聞かせています」と。

 どういう事なのか。

 開かれていないんですね。黒人社会のほうが楽ですから、そこに枠をつくってしまって、自らを追い詰めている。

 そういう状況ですから、一般的に、黒人居住区に住む人達よりも、ある意味で白人の人達と恋愛したり、結婚したりすることだって、可能性としてはずっと高いわけでしょう。でも、そういうことは許さない。まして、大学入学については。公民権運動のいちばん大きな焦点は何だったかといえば、統合教育でしょう。白人の大学でしかなかった大学の門戸を開くということが、公民権運動のいちばん大きな目標だったわけです。

 それでありながら、黒人社会の中で成功したその家族の鉄則は何かと言えば、「白人との統合大学へ行くんじゃなくて、黒人大学へ行け」なんですね。

 ここに、僕は、非常に大きな課題、落とし穴とも言うべき課題があると思います。


【ジョン・シングルトン監督 『ボーインズ・ザ・フッド』 『ハイアーラーニング』】

 あとの3つは、映画なんです。

 映画の好きな人は、観られた方もおられるんじゃないかと思います。僕の言っている課題というのは、いわゆる部落問題をリアルに描くことによって、それが我々の課題なんだと社会に、世間に訴えていくということだと思います。

 ジョン・シングルトンという非常に若い監督なんですが、『ボーインズ・ザ・フッド』という作品を撮っています。この時、彼はまだ23歳か24歳だったと思いますが、この映画を撮った1〜2年前に、ロスアンゼルスで大きな暴動が起こった、あの後なんです。

 サウス・ロスアンゼルスの黒人居住区を題材にした映画なんですが、実は、ロスアンゼルスでも、全米でもそうなんですが、犯罪被害者の、死亡してしまう人達の100%に近い人達は、黒人なんですね。加害者の100%に近い人達もまた、黒人なんです。

 何故、そうなるのかと。

 黒人と黒人がいがみ合っている。そういう図式が、どういう形で起こっているのかという問題に焦点を当てて、黒人社会の抱えている課題、黒人居住区の中で起こっている、例えばドラッグであるとか、失業率が高くて働けないという問題もありますが、昼間から酒を飲んで遊んでいるとか、そういう状況にカメラを据えて、その中から黒人が立ち上がるにはどういう課題があるのかという、それこそ黒人でしか描けなかった映画を彼は作りました。

 その翌々年には、『ハイアーラーニング』という、今度は、黒人と白人が統合している大学での重いテーマを題材にした映画なんです。

 実は、統合、統合と言っていますが、多くの大学では統合は実質は掛け声だけに終わっている。キャンパスへ行ってみたら分かりますが、こちらの隅には黒人ばっかり。また、こちらには白人ばっかり。また、こちらにはヒスパニックばっかり。こちらにはアジア人ばっかり。不思議に日本人だけはグループを作っていないと言っていましたが、そういう状況の中で、やはりグループを作ってしまって、そこでは横の連携、コミュニケーションが上手くいっていない。

 そのことから起こってくる悲劇、それがこの映画の課題なんですが、そういう時に、やはり、もともと公民権運動は統合教育を目指しているにもかかわらず、今黒人の運動の中で黒人専用の学生ホールを作れ、黒人専用の食堂を作れというようなことがまことしやかに要求に挙げられている。実現はしないですけどね。

 ある意味、「簡単に建前だけではそれほど統合は上手くいかないということも、現実の課題として、今あるんですよ」ということを言っているんですね。そういう映画です。ぜひ、一度観ていただいたらと思います。


【アラン・ダフ原作映画 『ワンス・ウォーリアーズ』】

 もう1つは、アラン・ダフという人の、『ワンス・ウォーリアーズ』という映画です。原作も文庫本になっております。

 アラン・ダフという人は、ニュージーランドの先住民であるマオリの出身なんです。このマオリの人達が、今どういう状況になっているか。

 世界的に、人権感覚が、人権意識が非常に高くなっている現状において、ニュージーランドでもマオリに対する保護政策が進んでいるんですね。

 そうすると、額に汗して働いているのが馬鹿らしくなってくる人達も出てくるんですね。それで、生活保護と同じような形で、毎月毎月政府からお金を貰う。住宅もちゃんと保障される。そういう状況の中で、やはり生き方が荒んでくるわけですね。もう、お金を貰った時には飲み放題に飲んで、暴れ放題に暴れる。女性や子どもにも暴力を振るう。

 そういうことを、これでもか、これでもかというほど、そこまでやらんでもええやろ、というくらいに描き切っている。その中に、一条の光明というか、そういう状況下で立ち上がるのが、ワンス・ウォーリアーズという、もともとマオリの中でも非常に重要な家系の一人の女性なわけです。

 マオリの中で、いちばん階層の高い娘さんと、いちばん階層の低い人とが結婚してしまうんですね。その中で彼女は決意するんです。5人の子どもがいて、その1人を自殺させてしまう。このままではいけない、この状況の中でもう一度なんとか立ち直ろうと決意し、保育所をはじめていくんです。そういうところで、原作は終わるんですが、映画はそこで終わっていません。

 そういう意味で、今まででしたら、やはり撮らない、まあ、撮れないということもあったんですが、敢えて撮って、撮ることによって問題を提起する。そういう手法が、生み出されてきているんではないかと思います。

 ヤン・ソギルの『血と骨』という、これも、やはり有名な本ですが、僕も読んでびっくりというか、ここまで書くか、というほどのヤン・ソギルのお父さんを描いた小説です。

 これでもか、これでもか、と書きながら、ヤン・ソギルの中には、やはり父に凝縮される、在日朝鮮人として持たざるを得ないような、負わざるをえないような、重み、重石、そのことを提起したんだと思いますね。で、これは、僕は傍からいつも思っていたんですが、在日の問題に焦点を当てながら活動している在日朝鮮人の作家はいっぱいいますよね。先ほどの金時鐘さんもそうですが、すばらしい作家がいっぱいいるんですよね。

 しかし、残念ながら部落問題に関して書く作家はいないんですね。いるんだけど、まあ、こういう形で書くというのは、まだ、マイナーですね。

 部落の人達自身の中に、やはり客観的にそれを赤裸々に見ていく人はいると思うんですが、やはり書けない。何故書けないのかというと、これは技術的な問題だけではなくて、非常に微妙なところがあるような感じがしているんですね。

 そうすると、在日朝鮮人の抱えている問題は、やはり、民族差別。やはり、民族的な違いを明確に打ち出す開き直りがあるんだと思いますね。

 僕は、ほんとうに部落の我々も開き直っていいと思っているんです。誤解されたら困りますが、「部落地名総監が出たからといって、一体、何が悪いの?」という感じがあるんですよ。それを悪用する人がいるから困るというのがあるんですが、部落なら部落で、隠す様なことは無いと思っていますから。

 でも、違いますよね、実際は。部落であるということを、やはりそんなに公にすることはない。もともと違いはないんだから、敢えて違いがどうこうと言う必要がないということで、部落であることをなくそう、なくそうという運動なんですね。

 在日の人達は、「朝鮮人は朝鮮人だ」ということを言おうとしているわけですから、そこの違いなんでしょうね。

 でも、本当に打ち出すとしたら、僕は、やはり「部落で、なんで悪いんですか」というくらいのことは言わなければあかん、と思っているんですが、それは、まあ、2回目、3回目の講座でも論議を進めていけたらなあ、と思います。


【アメリカにおける<ユダヤ人差別>】

 あと、それはアメリカのユダヤ人差別の問題と共通なんですね。これは、いい意味ではありませんが、1つの示唆だと思うんです。今でも、日本人にはユダヤ人差別に関する考え方が分からないんですね。たぶん、その感じが。

 ところが、アメリカでユダヤ人差別があり得るのは当たり前ですよ。南部の人にとっては、ユダヤ人を友達に持ちますか、と聞くと、「No」。普通に「No」ですよ。自分の家族がユダヤ人と結婚するとしたら、と聞いても、「No」。絶対反対します。

 「それは、差別やないか!」と言ったら、差別なんです、これは。

 差別なんですが、それを差別や、差別やという形でずっとやっていたら、例えば、我々が今部落差別問題でやっているようにやるのかといえば、やらないとは言わないけれど、そんなことをやっていたらどうしようもない。追い切れないというかね。

 そうすると、それに対する対応というのは、当然、ユダヤ人協会というのがあって、平等教育というプログラムとか、いろいろ熱心にやっていますが、アメリカというのは非常に大きな社会ですから、そんなに自由にいかないし、州ごとに全然違いますから、ユダヤ人たちが自分たちの中で何をやっているかというと、やはりそういう不合理な社会を社会として理解するところから始まっていますよね。差別が無いことが当たり前だとは進んでいないんですよ。始まっていないんです。

 差別があることは当たり前とまでは言わなくても、差別される現実があるなら、それをまず受け入れてからどうしようかという、差別されたから怯むとかいうことではなくて、差別されて、「こんな差別のし方があるのか」というようなこちらの対応の仕方を問題にする。

 だから、ある意味はっきりしていますよね。「宗教的な違いですよ」と言ったら、ユダヤ人だって一緒にはしないですよ。「宗教が違うんだから、あの人達、カトリックの人達とは一緒になりません」ということは、起こるわけですからね。だから、それを差別であるか差別でないかというところは非常に難しいところですね。

 大きな建前として、ホロコーストであるとか、そういう問題がアメリカで当たり前だと言われるかというと、そんなわけないんです。そんな事は言えないし、法律でも罰せられます。

 ただ、日常的に好き嫌いの問題、好悪の問題になってくると、ユダヤ人と付き合いますかと聞かれて、「No」だと言った時に、それに対して「それは差別やないか」という形になっているかというと、なっていないですね。なっていないと言うか、それがそんなに公には問題になっていないという状況。

 そうした時に、部落の我々が今行っていることは、極端に言えば、無菌状態。社会の中で、菌が全くないような状態。それが本当にありえるのかどうか。反対に、そんな無菌状態があることすら恐ろしいんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。

 ある意味で、差別は存在する。

 あるという、その状況の中で、それに反対することが、それこそ昔なら、部落とほんの一握りの部落外の人達だったかも分からないんですが、今はどんどん運動も進んできたし、政策の中で差別をする人の方が非常に小さくならざるをえないような状況まで追い込んで来たんではないか。そういう状況の中では、より一層監視の目を進めながら、徐々に徐々に、今行われている差別がたまたま5%だとすれば、それを4%にする努力、3%にする努力、その努力によって、こちらが差別を許さないような連帯をどう強固にするか。そういうことこそが僕は必要であるという気がするわけですね。

 「一切の差別を克服する」なんていうことはスローガンとして成り立っていますが、非常に現実味が希薄ですよね。まあ、意味は分かるんですが、それを100%、額面通りに捉えると、「差別が絶対に起こらない」なんていうことになってしまう。ある意味、これは空恐ろしいという感じもしないではないなと、僕は思っているんです。

 あと、僕の意見を何点か言いたいと思います。

 <懼れ>や<戦き>があることは当然で、これは前提なんですね。そういうことがあるからこそ、集まらざるを得ない部分があるんですが、ただ、僕は全同協のスローガンに『部落差別の現実に深く学ぶ』というのがありまして、これは非常に好きなスローガンなんですが、やはり、その部落差別の現実は不変なのか、というのがあるんですね。

 部落差別の現実は、ある意味では刻々と変わっているんですね。僕の世代、僕の親の世代、また、僕の子供の世代それぞれで、やはり違っているんですね。どちらかといえば、僕はある意味では、流れている差別の現実という、厳しさ、しんどさという面では、こういう言い方はしない方がいいと思いますが、軽い方だったと思います。

 ただ、少なくとも僕の親の世代よりも僕の世代の方が、僕の世代よりも僕の子供の世代の方が、より住み易くなりつつあるということは事実だと思いますね。そういう事実ならば、当然差別の現実も変わっている。差別の現実が変わっているのにも関らず、先ほど、ちょっと意見も出してもらいましたが、例えば《寄り添う》なんていうことは、20年、30年前から言われていて、20年前と同じようなレポートが、今日も同じように出ている。ある意味で、腹が立つときがあります。「ええ加減にしたらええんちゃう」と。

 変わっていないとは、どういうことか。それこそ部落の我々の運動だって、20年間一生懸命やってきたし、行政も一生懸命やってきたし、先生方も一生懸命やってきた。一体、その努力が何も報われていないのかどうか、という自己否定にも繋がるわけですね。同じことを言っていたら。そういう意味では、刻々と変わっている。

 そういう状況認識の中で、今部落の中の僕より若い世代のお母さんたちが、1つの集会に10人集まったら、10人が10人とも同じ分科会やと。その前の世代もそうだった。今も、そういう形でそれを「同じやないか」と言ってしまったら、容認出来るのかということが、僕は、やはりあるわけですね。

 親の世代が、例えば10人集まらなければ何も出来なかったとしたら、その子供の世代も10人集まって同じような状況になったら、やはり同じようなことが出来ない。孫の世代になっても、やはり同じようなことが出来ないとしたら、「一体部落ってなんやねん」という問題が僕自身の中にあります。

 そういう意味では、集うということを否定は出来ませんが、集う人達の質をより高めるためには、その中で、同じ世代、同じ状況で、いつまでもいつまでももたれ合うだけでは何も生み出さない。ある意味では、これは、集うんですが一旦は離れる。離れて、いろんな体験、経験をしていく。その人達がまた集うことによってこの中身が広がるんです。深まるはずなんです。

 その可能性を、残念ながら部落の人達は、これがいちばん住みやすいと思っているとして、そのままでいるとしたら全く進まないという問題が、僕はあると思うんですね。

 よく言いますが、「5人で行ったら、5つの分科会に出られるやないか。5つの分科会でいろんな意見を聞けるわけやから、1人が5つの分科会に出たのと同じ成果があるやないか」というくらいのことを言ってきたら、もっと、そこはいろいろな力を蓄えていけるわけでしょう。その部分を、僕はやはり削いでいると思う。

 それを削いでいるのは、別に今日における部落差別だけやないんですよ。多く、自分たちが一歩出ない、出られないということ。これは、ある意味変な言い方かも分からないんですが、部落の全研(部落解放研究全国集会)でも分科会に分かれて出ることなんて少ないですよ。2人行ったら、2人同じ所にしか出ないんですね。こういう傾向が今でも起こっているわけですから、ここは、やはりきついようですが、僕は「1人ずつ出なさい」ということを言うんですね。出たら、何かにぶち当たると思っていますから、それは大事やと思うんです。

 もう1つは、立場の違いという問題に関しては、そんなに簡単には乗り越えられないと思います。ただ、ある意味では、「あなたには、私の体験、気持ちが分からないだろう」というのは、事実だと思うんです。

 反対に「部落外の人達が持っているいろんな課題、いろんなしんどさも、それは部落の人達に分かるのか」と言ったら分からないでしょう。そういう時に、唯一優位性を持っているのは何かと言えば、「部落差別の質が重くて、部落外の人の困難はその質が低いんや」と。

 だから、上下関係で言えば部落の人達の方が重いから、部落の人達の方へ寄り添えと言っているんです。でも、構造的な問題としてあるとしても、本当にそうですか。「部落の人達の悩みと、部落外の人達の悩みと違うやないか」と言ってみて、何か意味がありますか。医者が、「部落の人が死にそうやから、これは部落差別やから一生懸命やらなあかん」と思いますか。「こっちは、部落よりは痛みが軽いから、ここはちょっと後回しにしようか」となりますか。

 事実、やはりならないですよ。当然、ならなければあかん時期はあったんですよ。少なくとも、対策事業が全く無い時期の状況と、今の状況と客観的にどう違うかというところを、まず我々自身が踏まえなければならないんです。

 そういう状況の時に、例えば、人の痛みをそう簡単に判断するのはあまりにも傲慢じゃないかと僕自身は思っています。

 痛みが重いからといって、他の人に共有出来ないわけですからね。部落民になるわけにはいかないので。そうすると、どうしてもまた溝が出来てくるんです。その部分を越えるのは、僕は何かと言えば、お互いの想像力ですよ。その想像力をどう鍛えるかという問題が、今、問われているんだという感じが、僕自身はしています。

 解放学級の問題ですが、これはどこの地域でも、府県でも、今問題になっていることですね。去年、三重県の6年生の子供たちが、いろんな体験学習の一環として修学旅行で大阪へ来ることがあって、話す機会があったんですが、「今までの自分たちの解放学級や、いろんな企画は、ほとんど誰かにやってもらっていた。それは、そこの隣保館の主事であったり、解放同盟の人であったり、自分たちの意思やと言われながら、意思じゃなかった」と。

 僕は、その小学生に2つのことを言ったんですね。1つは、「目の中に見えていたことを、理解しないことは出来るんだよ」と。「本来見えていても、見えないことがあるんだよ。ものというのは、見ようという基本的な、主体的な意識がはたらいて、はじめて見えるんだよ。だから、どんな悲惨な状態を目の前に置かれたって、見ない人はいるよ。見えない人はいるんだよ。やはり、皆さんにはそれを見てほしい」

 もう1つは、「一人で出来ることは、しれている。しかし、物事というのは、一人からしか出発できないんだよ。一人から気付いた人が、まず出るんだよ。気付いた人が出た時に、その人に共感する人達が、どれほど多く付くかによって社会が変わるんだよ」と言ったら、そのことを受けた子供が、何を自分の中で判断したか分かりませんが、「実は、この3月で対策事業が終わると聞いて、4月以降はどうなる。未来永劫、地区学習とか、同じようなことをやられると思っていたけれど、本当はそうじゃないよね」という話を、主事の人にしたらしいんですね。そうしたら、主事の人は、「そうだよ、4月以降は何も無くなるかもしれないよ。その時は、君たちはどうする」というようなことを、投げかけたらしいんですね。

 それから、彼ら、彼女らなりに考えて、「あれ?」と気付いたんですね。「やはり、自分たちは、なんやかんや言うたって、条件整備を完全に設えたものでしか動いていなかったんと違うか」と。

 「ぜひ、その出発として住田さんに会いたい」ということで、リバティで会いましたが、「どこで会いたい」と言うと、「住田さんが働いている職場、そこで会いたい」ということだったんです。

 その前に、ホームレスの問題とかいろいろ話をしまして、「その現場でならば、住田さんが考えていることを、ちょっとでも共有できる場面に自分たちも行けるんじゃないか、だから先生、そこで会えるようにしてください」ということだったらしいんで、僕はえらく感激したと同時に、こう言うと怒られますけれど、小学生でもそういう形で考えるのかと、本当にびっくりしたんです。

 そういうことなんですね。これは、別に小学生だけではなくて、大人だって同じなんです。基本的には。見ようとしなければ見えないことはいっぱいある。主体的に見なければ、やはり見えない。一歩踏み出さなければ出来ないということはある、というのが僕自身の考えなんですね。

 また、やはり部落の我々が、どう見たって過剰に反応してしまったり、それから被害者意識にとらわれたりというのは、事実としてあると思うんですね。このことを、僕はどうしても克服してほしいと思いますが、そんなに簡単に克服出来ないことも事実なんです。

 ただ、克服しなければ、本当の意味で部落の人と部落外の人と手を結ぶことが出来るのか、と言われれば、これは、先ほどちょっと飛ばしましたが、金石範(キム ソツポム)さんの話に関連するわけですが、被害者意識という問題を持っているということを、例えば加害者である人達に理解してもらうということには、基本的には、加害者、被害者というのは縦の関係でしょう。加害、被害というのはそうですね。加害、被害ということを前提にしている時は、我々の言っている《連帯》というのは横の関係ですから、この縦の関係というのを、横にしなければいかんのです。

 だから、被害、加害の関係を変えるような、両方から超えられるような状況をどう作るかというのは、簡単には出来ない、非常に難しい問題だと思います。その時に、金さんの言葉を1つだけ紹介しますが、「在日朝鮮人と、日本の人達との連帯を考える時にいちばん大きなネックは何か、それは在日朝鮮人が、日本人が持っている贖罪意識に訴えることだ」と言うんですね。

 「贖罪意識というのは、例えば在日朝鮮人が日本におる状況から考えたら、『日本が朝鮮を侵略しておった1910年から1945年までの36年間、お前たち日本人は朝鮮を侵略したやないか、そういう状況の責任をお前たちはどう取るのか』というような形で、日本の人と在日朝鮮人とが、話をしてきて、白熱してきた時に必ず出てくる。相手を黙らすために。それを言われた時に、良心的であればあるほど、その日本人はそれにひれ伏すんですよ。ところが、本来ならば良心的である、いちばん連帯しなければならない人達にひれ伏させ、跪かせている、そういう関係で本当に連帯が出来るのか。出来ない。最終的に、縦の関係でいくら言っても、横の連帯と言うのは手を繋ぐという感じになってくる」と、彼は言ったんですね。

 僕はそれを聞いていた時に、彼に質問したんです。僕が大学を出てすぐくらいの、青二才の時ですから、「それは、金さんみたいなインテリで、京都大学を出ているような在日朝鮮人の人が言うことは簡単や。でも、朝鮮人である、非常に苦労した思いを持った人たちは、あなたの意見に納得しないのと違いますか。僕も、今部落で活動しているけれども、部落のおっちゃん、おばちゃんにそんなことは言えません。それをあなたはどう思いますか」と。

 そしたら金さんは、しばらく黙って考えていらして、「それしかないでしょう」と、こう言ったんです。僕は、「え?」という感じで納得はしていなかったんですが、でも、そうなんですね。
25年くらい前の講演ですが、それ以来ずっと僕の頭に残っているんです。

 それしかないんですよ。どういう紆余曲折があるかもしれないですが、それを乗り越えなかったら連帯は無いんですよ。

 在日朝鮮人の人達は、贖罪を乗り越えなかったら、日本人との連帯は無いんです。我々被差別部落民も、被害者意識で加害者を責めるだけの、そういう立場をずっと持ち続けていたら、やはり本当の意味での手の結びようが無いんです。

 本当に手を結ぶというのは、共に部落差別を無くそうという地平に立った時に、はじめて無くなるんであって、そういう意味では、僕はもう1つ言うならば、これはどう見たってそうなんですが、一人一人のいろんな体験、これは、想像することは出来ますが、分かると言うか、「100%分かった」なんていうことはあり得ないですよ。まやかしなんですよ。

 皆さん一人一人が違うのと同じように、100%一緒だなんてことは無いわけでしょう。一緒ではないですが、大半が一緒ならば、普通は親友じゃないですか。その一緒の部分を、より深めていくためにいろんな事業を進めていくわけでしょう。

 最終的に、100%一緒になっていくということは望むべくもないですが、やはり親友というのは、それが何パーセント高まったらそうだ、という関係なわけですから、部落と部落外の人との理解の仕方も、100%同じだなんてあり得ないです。

 しかし、そのことをお互いに話し合いをすることによって、その溝を縮めていく、そういう作業が、今、必要なんです。

 そういうことが、今、僕はこの4月以降のいちばん大きな課題ではないかと思っています。

 どうもありがとうございました。
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